検証a14:織備懇望の内容
今川義元が送った明眼寺と阿部与左衛門宛書状にて、刈谷城の赦免について織田備後守が懇望したとある。これをどう考えるかで、刈谷城が今川方だったか織田方だったかが分かれる。今川方が刈谷城の攻囲を解いて織田方の状態が継続したの …
今川義元が送った明眼寺と阿部与左衛門宛書状にて、刈谷城の赦免について織田備後守が懇望したとある。これをどう考えるかで、刈谷城が今川方だったか織田方だったかが分かれる。今川方が刈谷城の攻囲を解いて織田方の状態が継続したの …
貴札委細拝見申候、仍信秀より飯豊へ之御一札、率度内見仕候、然者御され事共、只今御和之儀申調度半候事候条、先飯豊へ者不遣候、我等預り置候、惣別彼被仰様、古も其例多候、項羽・高祖之戦、支那四百州之人民煩とて、両人之意恨故相戦 …
去々年参河今橋外構乗取之刻、於城際頸一討捕伊藤、蒙鑓疵鑓三本突折、高名所無比類也、殊最前弥右衛門同時寄陣於了念寺之条、誠軍功之至也、然去年未田原取出城、至于当年二ヶ年詰陣、昼夜用心敵城不虞之働、是又粉骨之至感悦也、弥可抽 …
松井氏功績表を読めばある程度の時期が判明する。つまり、小豆坂合戦と西条攻略の間である。 小豆坂合戦は1548(天文17)年3月19日。西郷弾正左衛門尉宛感状で判る。西条攻略は、大村弥三郎宛感状の1551(天文20)年12 …
去酉年九月廿日、三河内吉良江取懸遂一戦敵追入、於端城随分之者討捕之旨、甚以神妙之至也、弥可抽忠功之状如件、 天文廿年 十二月二日 義元 大村弥三郎殿 →静岡県史「今川義元感状写」 去る酉年(天文18年)9月20日、三河 …
先年参州小豆坂合戦之刻、味方及難儀之処、自半途取返、入馬敵突崩得勝利、甚以感悦也、此時之出立、筋馬鎧并猪立物也、因茲敵令褒美、於向後分国之武士、彼出立所令停止、若至于違乱之輩者、可加下知者也、仍如件、 天文廿一年 八月廿 …
去三月十九日、於三州小豆坂、織田弾正忠出合、敵味方備処、加下知遂一戦、自身真先入馬、抽軍忠討両度太刀、無比類働甚以感覚者也、仍如件、 天文十七年七月朔日 義元 判 朝比奈藤三郎殿 →静岡県史「今川義元感状写」 去る3月 …
去ル三月十九日、於西三河小豆坂尾州馳合、最前入馬尽粉骨、宗信同前為殿之条、無比類働之儀感悦之至候、弥可被抽軍忠事専要候、仍如件、 天文十七 戊申 年 四月十五日 義元判 松井惣左衛門殿 →静岡県史「今川義元感状写」 去 …
今月十九日、小豆坂横鑓無比類之軍忠被励候、所感候也、為此償其国千貫之地令増知畢、於已後不可有相違、此条明鏡弥可被忠勤之状如件、 天文十七 三月廿八日 義元 西郷弾正左衛門尉殿 →静岡県史「今川義元感状写」 今月19日、 …
高林源兵衛狼藉之砌、屋鋪に相移、其上被官人討死手負数多出来、捨身命存忠節候、太以神妙也、依之、新井喜六郎其方可令與力候、陣番等可為相勤之候、恐々、 永禄三 五月六日 氏真(花押) 神原三郎左衛門殿 →神奈川県史 高林源 …