今川義元が送った明眼寺と阿部与左衛門宛書状にて、刈谷城の赦免について織田備後守が懇望したとある。これをどう考えるかで、刈谷城が今川方だったか織田方だったかが分かれる。今川方が刈谷城の攻囲を解いて織田方の状態が継続したのか、開城した刈谷城兵の助命を嘆願しただけで、刈谷城自体は今川方になったのかと考えたが、どちらも釈然としない。
 山口左馬助は、笠寺出資者に水野氏と名前を連ねていることが確認できる。三河と尾張国境近辺にいた国人だと思われる。山口左馬助が不平に思う事を義元は予期して、そのフォローを明眼寺と阿部与左衛門に依頼している。明眼寺は水野藤九郎書状で寄進先として登場する、水野氏関係の寺院である。
 そこで鵜殿長持の書状に着目してみた。この中で、鵜殿長持は「安心」(斎藤利政書状に登場した安心軒?)に対して、織田信秀が和平締結の途中だというのに飯尾豊前守に不穏な内容の書状を送っているとクレームを送っている。この時は飯尾豊前守に書状は渡らなかったようだが、刈谷でも同じ事があり、まずいことに刈谷城主は乗り気の書状を送ってしまったのではないか。それを山口左馬助が差し止めて義元に訴え出た。義元は信秀に、刈谷城を攻めて見せしめにする旨通達し、慌てた信秀がそこまでしなくてもと「懇望」した。信秀からすると、ここで刈谷城が陥落したら、織田方に味方する勢力が大幅に減ってしまう。義元にしても外交上の恫喝だったので、「赦免」することとした。
 そうすると山口左馬助にもフォローが必要だ。「左馬助の功績は認めるが、信秀の懇望もあって刈谷は許す。今川方に変動がある訳ではないので納得してくれ」という形で、左馬助を慰留するように書状を送った。
 検証a13では1549(天文18)年に懇望があったと記述したが、上記推測が正しいとすると、刈谷入城(1548(天文17)年3月20日以降と推測)より後であればいつでも構わないこととなる。
 信秀に絡むこの2書状はどちらも年次を欠いており、前後関係も不明だ。但し、鵜殿氏書状が先行していた可能性が高いと考えている。その件に着目した山口氏が情報網を張り巡らし、刈谷城主の地位目当てに水野藤九郎を徹底マークして証拠を挙げたのではないか。それだけに恩賞に対してはとてもうるさく、今川義元は慰留の書状を出さなければならなかったと。
 この件が刈谷=水野藤九郎へのしこりとして今川氏中枢部の心証として残り、岡部五郎兵衛尉が藤九郎を討ち取ったという書状への伏線になるのかも知れない。

貴札委細拝見申候、仍信秀より飯豊へ之御一札、率度内見仕候、然者御され事共、只今御和之儀申調度半候事候条、先飯豊へ者不遣候、我等預り置候、惣別彼被仰様、古も其例多候、項羽・高祖之戦、支那四百州之人民煩とて、両人之意恨故相戦可果之由、項羽自雖被打向候、高祖敵之調略非可乗との依遠慮、果而得勝事、漢之代七百年を被保候、縦御一札飯豊披見候共、御計策ニ者同意有間敷候哉、但駿遠若武者被聞及候者、朝蔵・庵原為始、可為其望候哉、此段之事候へ者、去年以来拙者存分不相叶事候間、兎ニ角ニ御無事肝要候、武新二前被申様ニより、重而談合可申候、恐惶謹言、

三月廿八日

鵜殿長持

安心

 参 御報

→静岡県史「鵜殿長持書状写」

 お手紙の詳細を拝見しました。よって信秀から『飯豊』(飯尾豊前守連竜?)への書簡も内々に見たところ、この戯言がありました。現在講和の交渉が過半まで来ているというのに。とりあえず飯豊には届けず我々が預かっています。総じてあのおっしゃりようは、昔にも例が多いものです。項羽・高祖(劉邦)の戦争もそうです。支那400州の人民の煩いとなったこの戦争は、二人の遺恨が原因で戦となったと言います。項羽より攻撃を仕掛けたのですが、高祖は敵の調略に乗らない深慮によって結局勝利し、漢帝国700年を築きました。たとえこの書簡を飯豊が読んだとしても、この策謀に同意することはないのではありませんか。但し駿河・遠江の若い武士がこの事を聞いたなら、『朝蔵』(朝比奈氏?)・庵原を初めとしてその望み(強攻策?)を行なうのではありませんか。このような事では、去年以来の私の努力は叶わないので、兎にも角にも無事が一番です。『武新二』(武井・武田・武衛?)が前に申されたように重ねて打ち合わせして下さい。

草書体での記述で考えると、『武衛』を『武新』と誤写した可能性もある。現状では『武新』該当人物が見当たらないため、一先ず武衛であると仮定する。

2.2:100:260:0:0:bushin:center:1:1:武新と武衛の草書体字形比較:

去々年参河今橋外構乗取之刻、於城際頸一討捕伊藤、蒙鑓疵鑓三本突折、高名所無比類也、殊最前弥右衛門同時寄陣於了念寺之条、誠軍功之至也、然去年未田原取出城、至于当年二ヶ年詰陣、昼夜用心敵城不虞之働、是又粉骨之至感悦也、弥可抽忠節之状如件、

天文十七

十二月廿日

義元

大村弥三郎殿

→静岡県史「今川義元感状写」

 一昨年三河今橋の外郭に攻撃した際、前線で伊藤という者の首級を上げた。槍で負傷しながら槍3本を折ったのは名誉であり比類がない。特に其の直前に弥右衛門と同時攻撃した了念寺の件も軍功の至りだ。去年未歳から田原城に対する砦に駐屯して2年になる。昼夜用心して敵城を恐れぬ働きをした。これも活躍の至りであり感悦している。いよいよ忠節に励むように。

松井氏功績表を読めばある程度の時期が判明する。つまり、小豆坂合戦と西条攻略の間である。
小豆坂合戦は1548(天文17)年3月19日。西郷弾正左衛門尉宛感状で判る。西条攻略は、大村弥三郎宛感状の1551(天文20)年12月2日と北条宗哲宛書状の1555(弘治元)年10月4日がある。「敵を追い入れた」という状況が同じなので、天文20年のほうが整合性が高い。つまり、1548(天文17)年3月20日~1551(天文20)年12月1日の間に刈谷入城があったと確定できる。
刈谷城への入城に当たっては織田方の妨害があったようだ。接収後の状況は、今川義元からの報告書によって判明する。刈谷城の関係者は、織田備後守の嘆願によって「赦免」されている。但しこの赦免には、山口左馬助は反対していたようなニュアンスがある。
安城城陥落が1549(天文18)年11月8日、上野城陥落が23日(出撃当日)。刈谷赦免は年次不明ながら12月5日。安城・上野関連の感状発行が12月8日・23日。単純に考えると、小豆坂で勝利した今川方が1年半後に安城・上野・刈谷を一気に攻略したのではないか。
その後、松井氏が刈谷城番を勤めていたのだろう。今川氏は城番勤務時に特別手当を給付するが、1560(永禄3)年5月以後も松井氏には刈谷城番の手当が給付されていたことから、刈谷城は少なくとも合戦時までは今川方だったと確定できる。但し、刈谷が今川方だったということは、岡部五郎兵衛尉が刈谷を攻めて水野藤九郎を討ち取ったことを氏真が褒めていることと矛盾する。この点留意しなければならない。

去酉年九月廿日、三河内吉良江取懸遂一戦敵追入、於端城随分之者討捕之旨、甚以神妙之至也、弥可抽忠功之状如件、

天文廿年

十二月二日

義元

大村弥三郎殿

→静岡県史「今川義元感状写」

 去る酉年(天文18年)9月20日、三河国吉良へ攻撃して一戦を遂げて敵を追い入れた。端城にて随分の敵を討ち取ったことはとても神妙である。いよいよ忠功に励むように。

先年参州小豆坂合戦之刻、味方及難儀之処、自半途取返、入馬敵突崩得勝利、甚以感悦也、此時之出立、筋馬鎧并猪立物也、因茲敵令褒美、於向後分国之武士、彼出立所令停止、若至于違乱之輩者、可加下知者也、仍如件、

天文廿一年

八月廿五日

治部大輔(花押)

岡部五郎兵衛尉殿

→静岡県史「今川義元感状」

 先年に三河国小豆坂合戦の際、味方が不利になったところを引き返し、馬を入れて敵を突き崩し勝利を得た。とても感悦した。この時の軍装は筋のある馬鎧と猪の前立てだった。このことで敵に褒美させてしまった。これ以後今川領の武士はこの軍装は禁止する。もし違犯する者があればそう伝えるように。

去三月十九日、於三州小豆坂、織田弾正忠出合、敵味方備処、加下知遂一戦、自身真先入馬、抽軍忠討両度太刀、無比類働甚以感覚者也、仍如件、

天文十七年七月朔日

義元 判

朝比奈藤三郎殿

→静岡県史「今川義元感状写」

 去る3月19日、三河国の小豆坂において織田弾正忠と遭遇し、敵味方が臨戦態勢に入ったところ、命令を出して一戦に及んだ。自分から真っ先に馬を入れ、奮戦して2度太刀を振るった。比類ない働きに感動した。

去ル三月十九日、於西三河小豆坂尾州馳合、最前入馬尽粉骨、宗信同前為殿之条、無比類働之儀感悦之至候、弥可被抽軍忠事専要候、仍如件、

天文十七 戊申 年

四月十五日

義元判

松井惣左衛門殿

→静岡県史「今川義元感状写」

 去る3月19日、西三河国の小豆坂にて尾張勢が来襲した際、馬を入れて活躍した。松井宗信も同じく殿を務めたとのこと。比類のない働きに感動しました。いよいよ軍忠に励むことが肝要です。

今月十九日、小豆坂横鑓無比類之軍忠被励候、所感候也、為此償其国千貫之地令増知畢、於已後不可有相違、此条明鏡弥可被忠勤之状如件、

天文十七

三月廿八日

義元

西郷弾正左衛門尉殿

→静岡県史「今川義元感状写」

 今月19日、小豆坂にて側面攻撃を仕掛けたことは比類のない功績で、感じ入りました。この褒美としてその国で1000貫文の土地を与えます。相違なく、このことは明確なので、ますます忠勤に励んで下さい。

高林源兵衛狼藉之砌、屋鋪に相移、其上被官人討死手負数多出来、捨身命存忠節候、太以神妙也、依之、新井喜六郎其方可令與力候、陣番等可為相勤之候、恐々、

永禄三

五月六日

氏真(花押)

神原三郎左衛門殿

→神奈川県史

 高林源兵衛が狼藉に及んだ際、屋敷に乗り込み、その上被官に死傷者を多数出しました。命がけで忠節を示したことは、とても素晴らしいことです。このことを受けて、新井喜六郎をあなたの与力とします。陣番などを勤めさせて下さい。