先年参州小豆坂合戦之刻、味方及難儀之処、自半途取返、入馬敵突崩得勝利、甚以感悦也、此時之出立、筋馬鎧并猪立物也、因茲敵令褒美、於向後分国之武士、彼出立所令停止、若至于違乱之輩者、可加下知者也、仍如件、
天文廿一年
八月廿五日
治部大輔(花押)
岡部五郎兵衛尉殿
→静岡県史「今川義元感状」
先年に三河国小豆坂合戦の際、味方が不利になったところを引き返し、馬を入れて敵を突き崩し勝利を得た。とても感悦した。この時の軍装は筋のある馬鎧と猪の前立てだった。このことで敵に褒美させてしまった。これ以後今川領の武士はこの軍装は禁止する。もし違犯する者があればそう伝えるように。
「敵令褒美」
元信の軍装が原因で「敵令褒美」となったのだという理解はその通りだと思いますが、その解釈に及ぶと、義元の云いたいことことと真逆の「元信の軍装が敵を利した」としてしまうことは、どう考えてもおかしなことです。
「今川方の武士が元信と同じ軍装をして何らかのトラブルとなり」と言われますが、そのような事件が起きたということは文面からは読み取れません。どうも、高村さんは「敵令褒美」という文言を「利敵行為になった」と解釈されておられるように見えます。
また、「分国中で禁止しているということは…」とも言われますが、禁止は未だされてはいません。これからするのです。そう書いてあります。「於向後…彼出立所令停止」とあるからです。
それに、「分国内で禁止となるならば、元信にも当てはまる筈ですが…」と言われるのも利敵行為があったという理解から生じた誤解であるものと思えます。
「敵令褒美」…これは、元信の天晴な戦場働きが、敵をして称賛させることになった、つまり敵が称賛することで元信に褒美を獲得させることになったということだと思います。または、本当に敵から元信に対して「かへり感状」を出されたのかも知れません。ただし、こちらはそのような伝承がありませんから、あくまで可能性ですが。
歴史上はかへり感状を受けた例もあります。『常山紀談』には向井与左衛門が上杉謙信に贈られた例が、『奥羽永慶軍記』には鮭登という敵武士の働きに対して直江兼続が褒美したという話が載っています。
こういうわけで、その時の元信の出で立ちが、他の家中の武士には装わせないという特別な褒美になったわけだと思うのです。ですから、もとより元信はこの禁止の対象にはなりません。そこで、読下しますと「敵をして(元信に)褒美せしめれば」となって、敵を主語に持ってきたために、褒美の目的語が省略されていると考えるわけです。
■「敵令褒美」の件
この時代の文書で「褒美」と検索してみると、褒めるという意味よりは実利的な意味のものばかりです。現代的な「ごほうび」としての意味の用例しか見当たりませんでした。反証がない限り、褒美の物品・金銭を敵が拠出したとなりますが、そのような例も管見の限り確認できませんでした。「敵が褒めたから自分も褒める」という例も確認できません。「かえり感状」という敵への感状の存在は否定的にならざるを得ません。自身の評価よりも敵のそれを優先する大名は存在するものでしょうか……。
軍装禁止に関しては少し誤解を招く表現をしてしまいました。ただ、文書内に「於向後」とあるのなら、その日付以後は禁止となりますから、元信が文書を入手した際には既に禁止状態が発動していることとなります。これで問題ないと思いますが、ご見解に沿っておりますでしょうか。
上記2点が確定しないと、その他の具体例に踏み込めないかと思われます。ご確認をお願いします(このままでは、恐らく平行線のまま双方論述することとなるかと)。
その際に史料提示がありますと助かります。極力同時代史料に基づいて論を進めるという当サイトの意図をご理解いただけますと幸いです。
高村さんは「自身の評価よりも敵のそれを優先する大名は存在するものでしょうか……。」と言われますが、これは逆です。敵にさえも称賛されるということは、そのような家臣を抱えた主君は自慢であったでしょう。…疑心暗鬼に陥るような猜疑心さえ持たなければですが。
また、「元信が文書を入手した際には既に禁止状態が発動していることとなります。」とも言われますが、これは感状ですから、命令の有効になる「時期」が問題になるのではなく、「筋馬鎧并猪立物」の武将を戦場でみたならば、敵味方の誰もが岡部元信だとわかるという栄誉を与えることに主眼があります。ですから、この命令が問題になるのは、次の合戦でのときになります。そこで、今川家中の誰か(元信を除く)が同じ出で立ちで罷り出てきたならば、面目丸つぶれになるのは義元の方だからです。まかり間違っても、元信の出で立ちが小豆坂合戦において、味方の作戦に支障をきたすような事件を起こしたというような意味ではないと思います。
それと、お答になってなっておられませんが、「可加下知者也」は、「そう伝えるように」という意味などではないと思います。先に述べましたように、「義元自身」が「下知」を違反者に「加える」のだと思います。元信が義元に報告するのではないと思います。
また、高村さんは、このような事例の感状の例を求めておいでのようですが、生憎お望みのような史料は持ち合わせておりません。この問題は単なる「令」という使役の助詞の読み方に過ぎない問題であると思っています。
ですから、この文書で本当に問題なのは、「筋馬鎧」とあるものの実態などです。
これは筋で継剥いだ「馬鎧(馬の防具)」なのでしょうか、それとも筋で継剥いだ「馬鎧」様の造りの具足なのでしょうか。「筋のある」とは横長の札を継剥いだということなのでしょうか。それとも筋金でも用いていたのでしょうか。ご教示いただければ幸いです。因みに、馬鎧も馬鎧様の具足も実物が存在しますが、「筋馬鎧」となるとどのようなものを想像できないでいます。
「褒美」に関しては、物理的な褒賞を含む史料しか見つけられていないので、推論は史料の調査次第かと思います。
「筋馬鎧并猪立物」が具体的にどのような軍装だったかのご質問ですが、その物理的な構成要素は判りません。ただ、この記述で当時の今川方は軍装を指定可能だったのだろうと思われます(物理的な要素が判れば何か進展があるのか、少し疑問に思います)。
「下知」は当主以外でも使える言葉です(https://old.rek.jp/index.php?UID=1223049617)が、この感状での「下知」は義元からのものを指すでしょう。私が「可加下知者也」を「そう伝えるように」としたのは、違反者を摘発するのは書状受給者であるという中世の大原則に沿ったためです。中世法に詳しくない方が見た際に、そのまま「下知を加えるべきものである」と訳しても「摘発者は義元」と誤解されると思い、意訳していました。禁制や宛行、安堵でもこの理解は必要なので、折を見て解説ページを作ろうと思います(その後に改訳します)。
「令」はこの時代だと助動詞としてよく使われます。使役・謙譲・命令の意味が入る場合もありますが、他者の動作という意図だけで使用している例も見受けられます。「一 尾州入国以来、於田原城際、味方雖令敗軍相支、敵城内江押籠、随分之者四人討捕之事」(https://old.rek.jp/index.php?UID=1188721980)を「味方をして敗退させたとはいえ支えて」(使役)と訳すと妙な文章になります。謙譲・命令になると、訳すのが難しいほどの違和感があります。ということで単に「味方が敗退したとはいえ支えて」のほうが文意が通るのです。こうして考えますと、該当文は謙譲・命令である可能性はなくなるものの、使役・他者動作は候補として残ります。
(1)ネットの三省堂「大辞林 第二版」には【褒美】 (2)に「ほめたたえること」とし『風姿花伝』から以下の文例がありますが………。
五十有余「この比よりは、大方、せぬならでは、手立あるまじ。麒麟も老いては駑馬に劣ると申す事あり。さりながら、誠に得たらん能者ならば、物數はみなゝゝ失せて、善悪見所は少なしとも、花は残るべし。亡父にて候ひし者は、五十二と五月に死去せしが、その月の四日の日、駿河の國浅間の御前にて法楽仕り、その日の申樂、殊に花やかにて、見物の上下、一同に褒美せしなり」
「駿河の国の浅間の御前で法楽の能を演じさせていただいたとき、その日の申楽は特に花やかで、見物に来た高貴な方から下賎の者まで、誰もが褒め称えた。」
(2)高村さんが言われる「違反者を摘発するのは書状受給者であるという中世の大原則」によると、高村さんが「違犯する者があればそう伝えるように」と訳される文において、一体誰が誰に伝えるのでしょうか。(1)岡部が違反者に命令が出ている事を伝える?(2)岡部が義元に告げ口する?(3)どちらでもない。?
そこで、「筋馬鎧」が「馬鎧」であることが明らかになれば、「違乱之輩」が如何様な身分の武士になるかを特定できるものと思いますよ。
そして、それが特定されれば、中世の大原則が作用して、困った事態を惹き起すことになると思いますが?
追加です。
ご指摘の「味方雖令敗軍相支」における「令」ですが、私の場合は「たとえ」と読みますが。
コメントありがとうございます。
1点目の「因茲敵令褒美」の解釈について
『風姿花伝』に関しては情報を持っていませんので、折を見て調べてみます。ただ、できれば同時代の文書で褒美=賞賛という用例があれば望ましいので、こちらも史料閲覧時に注意してみます。
敵が賞賛したが故に感状を出すのだとして、何故4年以上も発行が遅れたのかが謎として残っています。1552(天文21)年時点でも織田方との戦闘は継続しており、織田方との和睦によって義元の元に元信の評判が達したという訳でもなさそうです。
また、義元は「因茲敵令褒美」と言い切っていますが、敵方の賞賛を聞きつけたのだとすると、伝聞形式となって「由」か「云々」が記載されると考えられます。
当該軍装の禁止について、元信が除外される旨が記載されていないのも、やはり釈然としません。どのように考えても今川方全てで禁止されているようにしか受け取れないので。
2点目の文書受給者による摘発について
ご説明が至らず申し訳ありませんでした。私が解釈していたのは、違反者を見つけた元信が違反者を摘発するというものです。その軍装が禁止されている旨を告げて違反者が改めればそれで片がつきますが、もし相手が譲らなかった場合は、この感状をもって義元に訴えることになったと考えています。
「筋馬鎧」が馬鎧かどうかで身分が判るとのご指摘ですが、私は「立物」で給人であることが把握できると思います。後北条氏着到状(https://old.rek.jp/index.php?UID=1209399607)に、「一騎 自身、甲大立物・具足・面防・手蓋、馬鎧金」とあり、岡本八郎左衛門尉の軍装が判ります。
文末の’「困った事態」が何を指すかが判断しかねたのですが、改めてご説明いただけますと助かります。
ご指摘いただきましたが、「令」だけでは「たとえ」とは読みません。「仮令」か「縦令」、「縦」が「たとえ」と読みます。
また、「味方がたとえ敗北したとしても支え」では、軍功の書き出しとして不自然かと思われます。何故そこだけ仮定形が入るのかが不明なので。
「困った事態」が何故おきるかについて説明します。
「筋馬鎧」が「鎧」でしたならば、屈伸性がよくて戦場で活発に働くのに適しており、軽輩でも誰もが着ることができます。しかしこれが「馬鎧」となりますと、岡部は戦場で乗馬して戦っていたことになりますね。敵に褒美せられるほど目立っていたのですから、下馬していないということですね。それは高級指揮官であることを意味します。
ということは、岡部と同様、乗馬の防具に金をかけることができるのですから、大身の武士が相手(違反者)になります。それは重臣・岡部を超える大物家老になるかも知れません。
ここで高村さんは、「違反者を見つけた元信が違反者を摘発する。その軍装が禁止されている旨を告げて違反者が改めればそれで片がつきますが、もし相手が譲らなかった場合は、この感状をもって義元に訴える」と言われますが、このような行動は当時の武士が最も忌み嫌う「不甲斐無い」・「軟弱な」武士の典型になるものと思います。
ですから、質問の回答は③になります。
①②の何れも間違いです。
自分だけに許された軍装をした武士が味方内から現れるということは、岡部より自分の方が強いという挑戦になるはずです。布告を知らなかったでは済まないのです。もし、その武士が敵前で無様な姿を見せたりでもしたならば、これは岡部の恥になりますし、手柄を立てたならば、「彼軍装」を賭けて決闘しなければならなくなるはずです。
そして、当時の武辺道では自己の体面を汚されたならば、武器を取りに帰るためにその場を去ったりせず、また相手も去らせずして、その場で之を討ち果すのが当然の道理だからです。春秋公羊伝の思想と同形です。
従って、③が正解で、岡部ではなく、同輩が事が起きる前に気づいて、厳重注意して岡部に知れないようにし、武装を解かせることが正しい処置です。
次善の対応は、岡部元信が老練な武者であったならば、暫くは気付かない振りをして、周囲の者が当然の処置をする時間を与えるでしょう。
これは、岡部に見られるだけではなく、知られてもだめです。岡部も自分が知った以上は捨てて置けないからです。違反者を万座の前に呼び出し「汝の前立は猪歟、否豚であろう」と辱めるでしょう。すると当該違反者は、屈辱に耐えかねて切腹するか、その場で岡部を討ち果した上でこれも又切腹するかしかないでしょう。
と云うことは、当時の武辺道に則って、そいつらを自力救済で片をづけてしまっては、反って不忠になってしまうことになるわけです。勿論、義元に言いつける訳にも行きませんね。超大物さんは義元の命令を知らない訳が無いのですから?
ですから、これは困ったことになると云ったのです。
因みに、武辺道に関する一次史料などはないと思いますから、求めないで下さい。二次史料でも宜しければ甲陽軍鑑に幾つかの事例が載っており、まともな学者先生もこれについて論じておられのがネット上にみられますから、それをご覧ください。
「令」について
丁寧な御教授ありがとうございます。
古文・漢文は素人ですから正しい文法を提示できるとは思っていませんが、この文では、本当の主語「左衛門佐」は云わずもがなですから一切省かれているものと思います。
そのうえ、文中文では主語が省かれたうえに、主語と目的語が替置されていますから、そのまま読もうとするならば、使役の動詞を受身に変換しなければならないのだと思います。
これを、敵を主語にすれば「雖敵令味方敗軍、左衛門佐相支之、左衛門佐使敵押籠城内」とでもなるのだろう歟。
それを、「味方」を主語にしたうえ、目的語の「敵」を省いた文型になっているのは、おそらく「受身の詞」は意地でも使いたくなかったからだろうと思います。
続いてある、「味方令敗軍之刻、宗信相返敵追籠」これも同じ例です。
主語が省かれ目的語が主語になっているのですから、動詞は実際とは反対の受身形に読まなければならないのだと思います。
従って、「令」をどうしても読みたければ「例え」と読むだけのことです。
何故「仮定形」に置き換えるかと云うならば、味方は敗軍してしまったわけではなく、そういう形成に不本意ながら成らされかけていたのですから、「雖」に対して「たとへ」を補ったわけでして、これを訳したくなければ、「形成不利になったとき」とすれば良いと思います。
ですから、高村さんの言われるように「味方がたとえ敗北”した”としても支え」ではなく、「たとえ味方の敗色が濃くなった時も(屈せずに)、(味方陣を)支え、」とすれば意味がよくわかるのではないでしょうか?
「敵令褒美」について
「特殊な前立と馬鎧は戦場働きに不利をもたらす」などとは書いてあるとは思いません。
それをそのように理解されるのは、
専ら「敵令褒美」を、「敵令岡部褒美敵」=「敵、岡部ヲシテ敵ニ褒美セシム」と読まれるからだと思います。
「敵令敵褒美岡部」「敵ヲシテ岡部ヲ(ニ)褒美セシム」と読まなければならないのだと思います。
繰り返しますが、「褒美」を「称賛」とか「感嘆」に置き換えてみれば歴然ではないでしょうか。
「困った事態」についてのご説明ありがとうございます。
具体的な史料の提示がないので、一旦議論を打ち切らせていただます。当サイトは1次史料のみで仮説を組み立てる趣旨ですから、2次史料の提示すらなくご主張なされても論旨が逸脱するばかりでしょう。主観部分だけが明確で典拠が曖昧であるということは、歴史を客観的な研究対象とする場合に行なってはいけない行為だと、私は考えています。
引き続きご主張されたいのでしたら、ご自分のサイトで行なわれてはいかがでしょうか。