今川義元、菅沼久助が大高城補給に成功したことを賞す
去十九日、尾州大高城江人数・兵粮相籠之刻、為先勢遣之処、為自身無比類相働、殊同心・被官被疵、神妙之至甚以感悦也、弥可抽忠功之状、仍如件、 十月廿三日 義元 判 菅沼久助殿 →豊明市史 「松平奥平家古文書写」 去る十九日、 …
去十九日、尾州大高城江人数・兵粮相籠之刻、為先勢遣之処、為自身無比類相働、殊同心・被官被疵、神妙之至甚以感悦也、弥可抽忠功之状、仍如件、 十月廿三日 義元 判 菅沼久助殿 →豊明市史 「松平奥平家古文書写」 去る十九日、 …
検証a01に引き続き、同様の内容が含まれる文書を検討しよう。 武田晴信からの書状には、以下の事柄が含まれる。晴信は今川氏の強力な同盟者で、氏真とは何重にも血縁関係を持っている。 岡部五郎兵衛尉とは暫く音信がなかった。 …
『桶狭間の合戦』と世上呼ばれる戦闘を、まずは定義してみよう。通説は全て仮説として提示する。 日時 1560(永禄3)年5月19日(旧暦) 場所 愛知県豊明市に存在する標高65mの「おけはざま山」付近 概要 織田信長と交 …
其以来依無的便、絶音問候事、本意之外候、抑今度以不慮之仕合、被失利大略敗北、剰大高、沓掛自落之処、其方暫鳴海之地被踏之其上従氏真被執一筆被退之間、寔武功之至無比類候、二三ヶ年当方在国之条、今度一段無心元之処、無恙帰府、結 …
海岸線・都市・街道・河川の位置は、伊能地図による。刈谷の北から伸びている境川が、尾張と三河の境界線。緒川・沓掛・大高・鳴海は尾張に属す。
父左衛門佐宗信及度々抽軍忠之事 一 東取合之刻、於当国興国寺口今沢、自身砕手、親類・与力・被官多数討死、無比類動之事 一 尾州入国以来、於田原城際、味方雖令敗軍相支、敵城内江押籠、随分之者四人討捕之事 一 松平蔵人・織田 …
駿・遠両国内知行勝間田并桐山・内田・北矢部内被官給恩分等事 右、今度於尾州一戦之砌、大高・沓掛両城雖相捨、鳴海堅固爾持詰段、甚以粉骨至也、雖然依無通用、得下知、城中人数無相違引取之条、忠功無比類、剰苅屋城以籌策、城主水野 …
旧恩分之事 於三州吉田之内田畠屋敷分共拾壱貫文地、古郷之内四貫七百貫文 此内弐貫参拾文者荒地開発忠節分也 、都合拾五貫七百文、如年来可令知行(但此内弐貫四百文者扶持銭従蔵前毎年可請取之)、 右、雖帯天沢寺殿判形、去庚申年 …
三河国渥美郡七根内小嶋村一ケ所、并綱次・高信両人仁宛行知行、遠州小池村之内五拾貫文之事、付 於彼両郷陣夫弐人之事、 右、彼小嶋村之事者、為切符弐拾貫文之改替、所被宛行也、然者去辛亥年増分令出来、都合五拾貫文令所務之云々、 …
『1/25000地図』(国土地理院)・『今川義元』(小和田哲男)・『豊明市史』(豊明市)より作成。赤い点が織田方拠点・青い点が今川方拠点。セナ薮は、口承による瀬名氏俊陣地跡。桶狭間山と呼ばれる丘陵はその北東(標高64.7 …