佐久間信盛、赤川弥十郎・長田弥左衛門に所領を与える
為新加増、六右衛門給之内五百疋ツゝ両人へ千疋遣候上、相違有間敷也、仍如件、 永禄五 十月九日 信盛(花押) 赤川弥十郎殿 長田弥左衛門殿 →愛知県史 資料編11 「佐久間信盛判物」(熱田浅井家文書) 新しい加増として、 …
為新加増、六右衛門給之内五百疋ツゝ両人へ千疋遣候上、相違有間敷也、仍如件、 永禄五 十月九日 信盛(花押) 赤川弥十郎殿 長田弥左衛門殿 →愛知県史 資料編11 「佐久間信盛判物」(熱田浅井家文書) 新しい加増として、 …
従半羽殿被懸御意候、御領中方之内を以五百疋進之候、乏少之至候へ共、先如此候、恐々謹言、 正月十八日 織田源助 信盛(花押) →愛知県史 資料編11 「織田信盛書状」(熱田浅井家文書) 1562(永禄5)年に比定。 半羽 …
太神宮立願之事 右、就三州本意者、於彼地一所永可奉寄附之、但錯乱之間者、先於駿・遠之中毎年弐百俵、為日御供奉納之処、不可有相違者、以此旨弥於御神前、可為専武運長久・国家安全之丹誠之状如件、 永禄四 辛酉年 八月廿六日 氏 …
三河商人木綿之事■■■■■被申扱、速水勘解由左衛■■■■為礼物三百疋三種二荷持参■■■商人中合点にて相■候由■■■■可然候、時分柄候間、無申事様相果可然候、次 上へ御礼物■■■■被相急候て可然候、不可有油断■■■■恐々謹 …
急度令啓上候、仍今度三河商人、此方山中木綿通申候処、四本衆被押留候、自先規きわたなと被留候事、一切無之儀候、四本衆之儀も此方領中上下被仕候付而、別而入魂儀ニ候、我等も対四本江、雖不存如在候、新儀被申条如此候、被加御分別、 …
「三後彦次良光定応仁参年」 ■■■ ■一屋敷 在所道場之跡 ■■■■■■■ (西方者万代三百文目) 茶園共、 右、寄進申候条、為身後■置申候、若於子孫遣乱煩申者、於此寄進之面可■■沙汰候、次所ゝ村人之中よりも不可有遣乱候 …
毎度出陣誠以粉骨感入之至候、仍鞍一勢進之候、委曲露条目候間、略紙面候、謹言、 九月十日 岩手右衛門佐殿 同助市殿 →戦国遺文 武田氏編「某書状」(山梨市・信盛院文書) 毎回の出陣、本当にお疲れ様なことだと感じ入っており …
一、岡崎退治之籌略をめくらすへく候也、この所下条弾正半途へ越、岡崎より使之者を招密談尤ニ候、若不審候ハゝ氏真よりの書状披見として、半途江差越へき旨、急度可被申越之事、 一、久々利江之俵子、先五百俵相移候哉、重而五百俵必可 …
久松源三郎指越処、御馳走悦喜申候、只今委細御示、得其意候、被入御念候儀、難申尽候、尚期後音候、恐々謹言、 松平蔵人 十月廿日 家康(花押影) 岩手右衛門佐殿 →戦国遺文 武田氏編「松平家康書状写」(山 …
其以後者不申承候、仍高白斎注進之分者、越後衆雖令出張、無指儀退散之由先以御安心候、其後如何候哉承度候、因之陣中江以飛脚申候、恐々謹言、 八月廿九日 氏真(花押) 武田彦六郎殿 →戦国遺文 武田氏編「今川氏真書状」(内閣文 …