旧暦6月10日
7月13日、この日は旧暦で6月10日に当たる。この日に至ってようやく、織田方が合戦に関わっていたのではないかという史料が出てくる。 佐久間信盛が「今度就合戦之儀、早々御尋本望存候、義元御討死之上候間、諸勢討捕候事、際 …
7月13日、この日は旧暦で6月10日に当たる。この日に至ってようやく、織田方が合戦に関わっていたのではないかという史料が出てくる。 佐久間信盛が「今度就合戦之儀、早々御尋本望存候、義元御討死之上候間、諸勢討捕候事、際 …
7月11日は、旧暦でいうと6月8日となる。この日、義元が敗死した合戦に関わった岡部元信に宛てて、氏真が判物を発給している(今川氏真判物写)。 大高、沓掛が捨てられる中で、鳴海城を堅固に守ったと氏真は手離しで絶賛してい …
伊達政宗に1,000通を超える自筆の書状があったというのは初耳だった。その中から印象的なものをえり抜いて紹介しているのが『伊達政宗の手紙』(佐藤憲一著・洋泉社MC新書)である。 著者は仙台市博物館長だった人物で、政宗 …
7月6日は旧暦6月3日となる。この日、徳川家康(松平元康)が禁制を発している(松平元康禁制写)。 崇福寺は岡崎と西尾(吉良)との間にあり、この地点で今川方部隊が駐屯、もしくは交戦とすると、岡崎か西尾が反今川方となって …
今年2月に刊行された『戦国遺文 今川氏編』だけでも「生きている間に出るなんて」と驚いたのだけど、その後出ていた『戦国遺文 房総編』で「東京堂はどこまで行くのか。財布は持ちこたえられるのか」と不安になっていた今年の流れ。 …
今日6月28日は、旧暦5月25日に当たる。この日は氏真が天野景泰に宛てて、緊急事態を告げている(今川氏真書状)。 天野景泰はどこかの城を守備していたようで、堅固に守ったことを賞されているから、臨戦体制にあったのではな …
6月25日は旧暦5月22日に当たる。この日、氏真側近の三浦正俊によって初めて鳴海原合戦が語られた(三浦正俊書状写)。ここでは「不慮の巡り合わせ」としてのみ記され、松井左衛門佐(宗信)が奮戦して行方不明になったと語られて …
1560年の旧暦(宣命暦)5月19日は、新暦(グレゴリオ暦)で6月22日となる。ちょうど450年前のこの日、今川義元が尾張国鳴海原で敗死した。当日付けで合戦の模様を語った史料はない。その詳細は、この後最初の一報が発せら …
(切紙) 芳札祝着候、まつゝゝ相州之儀、数年つゝかなきところに、馬をよせられ、剰小田原之地ことゝゝく放火のよし、前代未聞、申へきやうもこれなき名誉まてにて候、然者、馬をたてられ、此刻あいはたさるへきよし候へとも、各断而異 …
1561(永禄4)年での記述が不足していたため、織田方禁制と氏真感状を追記した。特に織田方禁制3件は尾張を中心に広範に及ぶもので、注目が必要だろう。 登録したエントリーが多くなったため、ppblogの検索機能が追いつ …