ひとまず、自分の頭の中で今川義元の死について疑問はクリアされた。何れこの事件のあらましを再構築せねばならないだろう。
西三河国衆の家格から考えて、義元が姪婿に選んだのは吉良義昭ではないかという仮説は、史料が極端に少ない中での憶測でしかない。後に徳川家康が嫡男信康を切腹させ、正室清池院殿を殺害した理由として、義昭からの強奪を検討した。ただ、それならば後に信康は実子ではなかったと徳川家御用史観で片がつけられる筈だと思い直した。
家康がクーデター前に義昭と交戦を始めたのは、西三河で最大の競合相手となる勢力を潰しておこうと考えてのことだろう。
この後、3月中に戦国遺文の今川氏編最終巻が刊行されるだろう。これまでアップしていなかった文書を整理しつつ、データが網羅されるのを静かに迎えようと思う。