六角義賢の条書写で最も気になるのは、斎藤義龍と京都(将軍・幕府政所・関白)との親密さをなじっている部分だ。

斎治言上儀、不可被成御許容旨、 公方様江再三申上、又伊勢守与斎治所縁之時、京都江荷物以下当国押とらせ、対勢州数年不返候、并近衛殿江彼娘可被召置由、内々此方江御届之時、以外御比興、沙汰之限之由、申入■■被打置儀候

義賢は何故このような妨害を行なっているのだろうか。その理由には、この条書で多数触れられている土岐頼芸の問題があった。天文末年から美濃を巡る最大の関心事はここにあった。

1551(天文20)年と思われる年に、近衛稙家は今川義元に、『土岐美濃守入国之儀』を成功させるために織田信秀と和睦するよう依頼している。元々美濃守護だった土岐美濃守頼芸は斎藤氏によって国外に追い出されていたが、彼を復帰させようと足利義輝が画策。この時に間を取り持ったのは家督相続前後の六角義賢であった。

近衛稙家、織田信秀との和睦継続を今川義元に求める

その9年後にも、土岐頼芸を擁した六角義賢はもとより、朝倉・織田にとってもこの事案は継続案件として扱われているのは条書写でよく判る。しかし、何とこの和睦を主導した義輝・近衛前久(稙家の息子)は、頼芸を追い出した斎藤義龍と交誼を結んでいた。別史料になるが、更に『一色』の名前を与えようとしていた。義賢が不満に思ったのも無理はない。

そして、実はこの前年、織田信長は短時間上洛している。その要因の一つに、頼芸帰国交渉についての義輝の真意を質す目的があったのではないか。

各種日記における、『永禄2年の織田信長上洛』の記述

同じ陣営の六角義賢の協力もあって行きはスムーズだったが、国許が慌しくなり5日程で帰国している。上洛を察知した義龍の後方撹乱によるものだろう。信長が義輝と面談できたかは定かではない。

頼芸帰国は、信長にとって美濃侵攻の強力な大義名分であり、この案件がある限りは今川義元の西進を抑制できる一石二鳥の旗印でもあった。無理な上洛をしてでも維持したかったのかも知れない。

信長はこの6年後にも似たような状況を利用しようとしている。

美濃国の氏家直元ら、甲斐国の某に織田信長の美濃出兵失敗を伝える

横死した義輝の後継者である義昭からの檄に応じて、斎藤龍興と共同で上洛作戦を行なうことになった。しかし、尾張からの上洛経路を整備させた挙句に作戦から離脱を宣言し、美濃への侵攻を行なったという。

この例を敷衍すると、頼芸入国の裏でも、それに乗じて美濃侵攻を虎視眈々と狙っていたものと思われる。ところがその名分は瓦解。あまつさえ、将軍の後ろ盾を得て守護家格の一色氏となった義龍が、守護代格の織田氏を圧倒する可能性すら出てきたとすれば、信長はかなり焦っただろう(上記書状の斎藤氏家臣の苗字は、何れも一色氏のものに改名されている)。

一方、西三河の統制強化を行なっている矢先の今川義元は、この綻びを聞きつけて尾張への圧力を強めていったのではないだろうか。

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