織田信長は美濃攻めを急がねばならなかった。それは一貫している。斎藤義龍が一色氏を名乗ることで、斎藤利政の婿としての後継者要素も、土岐頼芸を奉っての大義名分も失うからだ。まさかこの時点では1561(永禄4)年5月に義龍が急死するとは思ってもいなかっただろう。

それを見透かして今川義元は西三河領有化を進める。美濃を巡って武田晴信がすでに信長と交誼を結んだこともあり、義元としても信長をどうするか早く決める必要があった。完全に従属させることが第一だが、晴信が遠山氏に行なったような半従属のような形でも構わなかっただろう。また、西三河には刈谷・緒川に織田方の水野氏がいた。まずこの国衆を従えなければならない。

義元の文書分布を見ると、永禄元年4月頃から減り始め、同2年5月から不自然な程に発給数が減っている。また、義元の感状発行日数で考察したことを合わせて考えると、この頃から義元は西三河の前線にいたのだろう。永禄3年3月に一旦駿府に戻った形跡があり戦国遺文では3つ記録が残されているが、同月20日に関口氏純が「近日義元向尾州境目進発」と書いたのを最後に記録は途絶える。正式な家督継承はなかったと見えて、氏真の文書はまだ少ないため、この時期の今川分国は行政不在に近い状況になっていたようだ。

ここで視点を変えて、義元敗死の状況を考えてみる。氏真の「尾州於鳴海原一戦」という言葉から、義元は沓掛から鳴海への補給行程で相原郷付近で戦闘に及んだ。その段階で朝比奈親徳は銃撃にあって負傷し戦線を離脱する(川の柳に隠れたという伝承あり。扇川か?)。その後、同じ氏真書状にある「父宗信敵及度々追払、数十人手負仕出、雖相与之不叶、同心・親類・被官数人、宗信一所爾討死」という記述があるので、義元は松井宗信に援護されながら退却を開始した。太原崇孚香語にある「礼部於尾之田楽窪、一戦而自吻矣」から、義元たちは鴻仏目辺りを渡って二村山を目指しつつ、麓の田楽窪で全滅したと導き出せる。

なぜ義元が二村山を降りて鳴海原にいたのだろうか。最も有力な考えは、義元自らが沓掛・鳴海間の補給を指揮していたということだ。毎月19日に行なわれていた鳴海から大高への補給はこの日も行なわれていたのは、大高城周辺でも合戦があったことからはっきりしている。であれば、沓掛から鳴海、鳴海から大高への補給が同じ日に行なわれていた可能性が高い。大高への補給で空いた倉庫にそのまま沓掛から補給できる。

このことは、鳴海城にいた岡部元信がなぜ眼前の鳴海原へ救援に動かなかったかの理由付けにもなる。丸内古道を通って大高に向かう補給部隊を出してしまった鳴海城では、沓掛からの補給部隊が来るまで身動きがとれない。

この同時補給は挑発の一環でもあるだろうが、隙を見せ過ぎな面が大きい。このような用兵を少なくとも半年以上、律儀に毎月19日に行なっていたのだとすれば、織田方としては作戦が立て易かっただろう。

この時、5月19日だけ偶然義元がいたという考えも可能だが、信長が美濃との国境を空ける危険を冒してまでの強襲をかけたのだから、やはり織田方の狙いは、二村山を降りて鳴海城に入るまでの義元の身柄にあったのだと思う。であれば、4月19日の時に義元は姿を見せていたのだろう。ここまで来ると挑発というより油断としかいいようがない。

そもそも今川方のちくはぐさは前年10月19日から現われている(検証a46)。補給部隊警護の奥平監物は、後方の菅沼久助が襲撃されて慌てて引き返している。敵の攻撃を誘う挑発行為であるならば、もっと警戒して然るべきではないだろうか。挑発はあくまで手段であり、目的は敵兵力を引き付けることにあるのだが、この頃すでに挑発している自覚がなくなり毎月19日の補給自体が目的化してしまっていた兆候が出ている。

また、幸か不幸かちょうどこの頃は旱魃が続いていた(甲斐の記録で「此年六月前ハ日ヨリ同六月十三日ヨリ雨降始」とある)。結果、濃尾国境の河川は水位が下がっていたと思われ、美濃からの侵攻が容易になっていた。このことがさらに今川方の油断を誘ったのではないか。

それを裏付けるように、5月19日の大きな戦果にも関わらず、織田方はその後作戦を継続していない(大高・沓掛は自落、鳴海は自主開城)。なるべく一瞬で片をつけて美濃に備えたかったと判る。傍若無人な挑発を繰り返す今川方を放置するのも限界に来ており、水野氏からの救援要請もあって叩いておくことにしたのだろう。もし義元を討てなかったとしても、「いつでも全兵力を南下できる」という威嚇は成功する。信長が濃尾国境をがら空きにするという発想は義元にはなかった。この点が敗因の1つだと考えている。挑発の結果、相手が危険を冒してでも反撃してくるというシナリオを考えていなかったのだと。

もう1つの敗因は、本来攻守同盟を結ぶべきだった義龍と連携していなかったことだ。信長と晴信が友好関係にあるため、彼らの共通の敵へ具体的な連絡をとることを義元は躊躇した。だからこそ、毎月19日という隠微なメッセージを義龍に送り続けたのかも知れない。しかしそれは甘い考えだったのだろう。後で何と言われようと、義龍と連携を取って信長を追い込み、しかる後に晴信と共に義龍を攻めればよかったのだ。

1545(天文14)年に晴信は、北条氏康攻めに固執する義元を宥めている(武田晴信書状写)。松井山城守宛だが、実質義元宛といっていい。また、文中で「有偏執之族者」と書いているのは暗に義元の頑なさを示唆しているようにも見える。刻々と変わりゆく状況に柔軟に対応する能力と、変節漢と言われようと笑っていられる厚顔さが義元には足らなかったのかも知れない。それはまた、正当な後継者ではなく内戦によって今川家当主となった負い目が影響しているようにも思える。

Trackback

2 comments untill now

  1. こまつ @ 2015-03-13 10:51

     いつもお世話になっております。

     今、人物叢書の『今川義元』を読んでいます。そのなかで、今川氏親没後の跡目争いに於いて寿桂尼が玄広恵探を支持したのは、太原崇孚が京都政界人脈を駆使して栴岳承芳の家督相続を着々と進めるなか、自分の実家の格では、太原崇孚の人脈に到底及ばないことへの忸怩たる思いからではないかという有光氏の高説に首肯しました。その一方で高村さんが検証a39で唱えられている、花蔵の乱や第二次河東の乱に於ける寿桂尼の動向から、「大方と義元に血のつながりがない」という仮説も注目に値すると思いました。

     ここから本題になりますが、こうして鳴海原合戦の一連の流れを拝見しますと、改めて、従来の『信長公記』に拠った桶狭間合戦の概説では知り得ない合戦に至るまでの経緯と合戦の様相の実像を目の当たりにした思いです。取り分け、今川方による毎月19日の補給活動が要因となって鳴海原合戦が5月19日に行われたことと、義元が補給を直接指揮するために二村山から鳴海原に下っていたことを導き出されたのには感嘆を禁じ得ません。つきましては、検証の後段で示されました敗因の仮説(今川義元が斎藤義龍と連携できなかった)についても、更なる検証が進みますことに期待しております。

     ところで、太原崇孚香語に於ける義元の「自吻」は礼賛に過ぎないとの解釈からでしょうか、これまで自分が手に取ることのできた書籍では、香語には触れられていても、義元が自害した可能性については言及されていなかった気がするのですが、高村さんは如何お考えでしょうか。

  2.  ご無沙汰したおります。コメントありがとうございます。

     寿桂尼(瑞光院殿)と義元の血縁については、いずれ確証が出ればいいなと思いますが、今は推測が限界ですね。ただ、瑞光院殿についてはちょっと謎がありまして、彼女の生前は氏真と早川殿(蔵春院殿)との間に子ができず、死後いきなり多産になっているのです。まるで、瑞光院殿が邪魔していたような形になります。長女が産んだ孫娘を冷遇するような行為があったとすれば、事情が本当に判らないのです。

     さて、鳴海原については長々とかかってしまいましたが、ようやく自分の中で氷解しました。峠は越えたかなと安堵です。ご指摘の「自吻」については、実際に自刃したと感じています。「今川氏輝七年忌香語」に出てくる今川義忠戦死は『八世義忠戦死于遠陽坂崗』となっていますので、殺されたことを慮って自刃としたのではないと考えています。しかしそうなると、小高い自陣の二村山を目前になぜ自吻したのかは余計謎になってきます。まだ書いていませんが、この時二村山は水野藤九郎の奇襲されたと想像しています。この攻撃によって田嶋氏・大村氏の文書が焼かれたのかと。そして、攻守取り違えて、岡部元信の功績として氏真に伝わったものの、結局誤伝と判って抹消されたと。下記リンク辺りをご参照下さい。

    検証a03:沓掛城での文書紛失
    検証a19:岡部元信の刈谷攻撃はあったか

     あくまで物語に近くなってしまいますが、この仮説であれば色々な謎がつながるんじゃないかと考えております。