六角承禎(義賢)による興味深い条書から、以下の状況が判る。
斎藤義龍は京都(将軍・政所・関白)と強い繋がりを持っており、朝倉義景とも婚姻関係を持っていた。しかし、土岐頼芸の美濃復帰を巡るやり取りで朝倉義景との関係が微妙になっていた。また、織田信長・遠山景任とも敵対していた。
また六角義賢は縁戚の畠山義綱との関係で朝倉義景と敵対しつつも和睦を模索しており、「六角と組んで朝倉とは断交する」という斎藤義龍の発言を信用していなかった。
- 六角義賢と六角義弼の親子は以前に仲違いしており、六角義弼は佐和山にいた。
- 六角義弼が佐和山から城に戻る際に、六角義賢に服従することを誓約していた。
- 斎藤義龍との婚姻は六角義弼が主導で行なっており、六角義賢は反対していた。
- 土岐家と六角家は複数の婚姻関係にあり、土岐頼芸は数年前から六角氏の元に滞在している。
- 斎藤義龍は将軍の足利義輝と政所の伊勢貞孝、関白の近衛前久(この年9月19日に越後下向『諸家伝』)と親しかったが、六角義賢は常々妨害と諫言をしていた。
- 朝倉義景との婚姻は継続協議中だが、以前は能登の畠山義綱との関係で失敗していた。
- 斎藤義龍は朝倉義景と婚姻関係があったが、六角氏との同盟を重視して破棄すると申し出ていた。
- 朝倉義景は揖斐五郎を擁して美濃侵攻を企図し、土岐頼芸を介して織田信長と協議しているとの噂を義賢が入手している。
- 斎藤義龍は、越前の朝倉義景、尾張の織田信長、東美濃の遠山景任と紛争状態にあり、六角氏に何かあっても援軍を遅れないと義賢は考えていた。
ちなみに、『戦国史研究54号』の「斎藤義龍の一色改姓について」(木下聡・著)によると永禄期から斎藤義龍は一色義龍に改名しており、主要な家臣も一色氏家臣と同じ苗字に変えていたという。
安東日向守 → 伊賀伊賀守 守就
桑原三河守 → 氏家常陸介 直元
竹越新介 → 成吉摂津守 尚光
日根野備中守 → 延永備中守 弘就
将軍である足利義輝は土岐頼芸を擁護しつつも、土岐氏と並ぶ家格の一色氏の名を斎藤義龍に与えたものと考えられる。両天秤外交かも知れない。