『甲相駿三国同盟』は有名だが、この成立条件の一つに3つの大名がともに同年齢の嫡男を持っていた点がある。

永禄3年1月時点での比較を表にしてみる。

嫡男 配偶者 父親 婚姻期間
武田 義信(22歳) 義元娘 晴信(39歳) 9年
今川 氏真(22歳) 氏康娘 義元(41歳) 5.5年
後北条 氏政(22歳) 晴信娘(17歳) 氏康(45歳) 5年

嫡男の年齢が全員一緒であり、またそれに配偶できる嫡女が存在したが故にこの同盟は婚姻を伴えた。では、次の世代への継承で考えるとどうだろうか。

短期間で見ると、同盟(婚姻)期間が最も長く、父親の年齢が若い武田氏が最も有利であり、その逆の後北条氏が不利となる。だが、この時点で3つの大名ともに嫡孫は得られていなかった。嫡男と嫡女という強い政治要素を入れてしまった以上、その2人の息子を次世代に据えるのが必須になってくる。この婚姻同盟にはこういった不安定要素も織り込まれている。

  • 武田家

男系継承が前提だから、成婚後9年を経て男子に恵まれなかった武田義信は深刻だったと思われる(女児の園光院殿はいたとされるが)。晴信の次男は盲目、三男は夭折している。正室腹ではないが四男勝頼が14歳、また晴信次弟信繁の嫡男信豊が11歳で存在するがともに未婚。永禄8年に義信が廃嫡される伏線がここに織り込まれているように見える(結局義信は家督を継げなかった)。

  • 後北条家

その一方で順調な兆しを見せていたのが北条氏政である。武田の嫡女である黄梅院殿とは、3家で最も遅い天文23年12月に成婚しているが、翌年11月8日に長男、更にその翌年に長女を出産(長男は夭折)、続いてそのまた翌年の1557(弘治3)年11月に武田晴信が願文を出している。それによると翌年6月出産予定とのこと。今川義元が敗死した直後の永禄3年7月にも晴信は願文を出しており懐胎の気配があったことが判る。後の嫡男となる氏直が生まれるのは1562(永禄5)年なので永禄3年の時点で後継男児はいないのだが、脈は大いにあったと言えるだろう。永禄2年12月23日に氏政が家督を継承できたのはこういった要因もあったと考えられる。

  • 今川家

未知数ながら勝頼・信豊の存在があった武田家より更に追い詰められていたのが今川で、義元にも氏真にも男兄弟は残っておらず、氏真と蔵春院殿(早川殿)との間には、後に吉良義定室となる娘しかいなかった。3代か4代遡れば血縁者もあったかも知れないが、文書に出てくるような活動は残されていないため落魄していたと思われる。

この事態を受けて、氏真への家督継承が曖昧になっていたのではないだろうか。毎年1月13日の歌会始は当主が行なっているが、1557(弘治3)年は氏真が行なっている。山科言継の記述によると、この歌会の前に大方(瑞光院殿・寿桂尼=氏親正室)から言継に装束の贈呈があり、氏真が当主として初めての歌会始を行なうニュアンスが伝えられている。ところがこの後の1月29日に義元が歌会始を急遽挙行し、これにも言継は駆り出されている(この時には大方は動いていない)。氏真の家督継承を既成事実とすべく活動する大方と、それを打ち消そうとする義元の対立が見て取れる。

これは後で詳しく検証する必要があるが、大方と義元に血のつながりがないと私は見ている。つまり、氏親が側室に生ませたのが義元という考え方である。花蔵の乱や第2次河東の乱での大方の動きを見ているとどうもそのように思えるためだ。

そのような観点から見ると、大方が氏真の継承を推したのは、氏真正室の蔵春院殿が、大方の嫡女である瑞渓院殿のそのまた嫡女だからだと気づく(閨閥図)。長女の長女であり、外孫とはいえ蔵春院殿を引き立てたかったのではなかったか。一方の義元から見れば、氏真は息子ではあるものの、その嫁とは関わりがない。自身に次男ができる可能性もある以上、氏真に譲ったら内紛の原因となることを危惧していたように思える。

そして大方には後北条家から手元に預かった北条氏規もいた。氏規は瑞渓院殿の次男と記されており、前述の言継記述によると大方は年中同行させていた。そして氏規は1556(弘治2)年12月に11歳で「祝言」したと記載されている。この祝言が元服を意味するのか婚姻を意味するのかは説が分かれているところだが、私は元服には少し早いので婚姻ではないかと推測している。婚姻の場合、原典は明確でないが朝比奈泰以の娘が相手とする説がある。

この氏規は仮名を「助五郎」としており、今川家嫡流の「五郎」から来ていることは確実だ。筆頭重臣の娘と娶わせているのであれば、氏真に何かあった際に氏規を担ぎ出す予定だったように思える。

一方の義元には、別の血筋があった。自身の側近関口氏広に嫁した女性は、『戦国人名事典』によると義元の妹と一般に言われているが、元側室だったという説もあるらしい。何れにせよ非常に近しい間柄であり、前述の義元庶子説を前提とするなら同腹の妹だった可能性があるように見える。そして、この関口氏広室は、清池院殿(俗に築山殿・瀬名姫)を産む。

清池院殿は1557(弘治3)年1月15日に西三河国衆の出身である松平元康と婚姻するのだが、2年後の永禄2年3月6日に嫡男信康、翌年6月6日に嫡女(亀姫)をもうける。多産といっていいだろう。

義元は、自身の血統である蔵春院殿・氏規を推し立てる大方に対抗して、姪の子である信康に着眼したのではないだろうか。そのためには、松平元康をもっと引き立てる必要がある。

さて、1560(永禄3)年1月という、鳴海原直前の状況に立ち戻ってまとめてみよう。

武田家は嫡男義信に後継者が9年もなく焦り気味。四男勝頼が徐々に脚光を浴び始める。

後北条家は氏政への家督継承も終わり、多産であるこの若夫婦に期待しつつも、戦略的な養子に出した次男氏照・三男氏邦を呼び戻すこともできる状態。最も安定している。

今川家は氏真が5年半後継者をもうけられず、それでも大方の方針で家督を継承させつつある。但し、次善策として大方は15歳の外孫、氏規を用意し、義元は1歳の姪孫、信康(後見として17歳の元康)を検討し始めた。

確実にいえることは、三国同盟が足枷になって正室所生の後継者が必要であり、今川家は氏真後の後継者が永禄3年時点では不透明だった点である。

余談だが、この仮説で義元が後継者と目した信康には娘2人しかできなかった。遠い後に信康は義信と非常によく似た境遇で切腹に追い込まれているが、「後継者をもうけられなかった」という共通点をもって事態を把握することは重要な要素だと思われる。

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