三河国において、今川氏がどのように給人を扱ってきたかは以下のエントリで考察してきた。
何れも高圧的で、引き立てる振りをしながらそれぞれの国衆の勢力を弱めようとしているものだった。では三河国衆はどのように考えていたのだろうか。それを探る手がかりになるのが、三河国上郡の鵜殿氏の発言を後世に遺した日蓮宗僧侶日覚の書状である(鵜殿氏は日蓮宗への信仰心が篤く、この発言は本音だろう)。
鵜殿仕合ハよくも有間敷様ニ物語候、其謂ハ尾と駿と間を見あはせ候て、種々上手をせられ候之処ニ、覚悟外ニ東国はいくんニ成候間、弾正忠一段ノ曲なく被思たるよしに候、
「(この文の前に織田が三河を軍事的に席巻したことが書かれている)鵜殿の状況はよくはないとの話です。その内容は、尾張と駿河の間を縫って色々とうまく立ち回っていたところ、思いのほかに東国(今川義元)が敗軍になったので、弾正忠(織田信秀)に一段とつまらなく思われたとのことです」
1547(天文16)年と比定される文書で、日付は9月22日。その僅か17日後には、今度は今川方が尾張まで攻め込んだ旨を報告している。
駿河・遠江・三州已上六万計にて弾正忠へ向寄来候へ共、国堺に相支候て、于今那古野近辺迄も人数ハ不見之由候、果而如何ゝゝ
「駿河・遠江・三河から約6万ほどで織田弾正忠へ向かって寄せ来たりましたが、国境で防戦して、今は那古野近辺でも部隊は見えないとのことです。果たしてどうなのでしょう」
9月22日には「弾ハ三州平均、其翌日ニ京上候」とまで書いていた織田方が呆気なく三河を失い、尾張にまで攻め込まれたのは、織田に一方的に勝たれては困るという三河国衆の意向があったように思える。
ここで出てくる鵜殿氏は三河国衆の中では今川寄りの勢力で、「鵜殿長持書状写」では、講和の裏工作をする織田信秀を長持が責めている。また、永禄4年に松平元康が叛乱を起こすと今川方に最後まで残って当主長照が討ち死にしている家だ。その鵜殿氏ですら「どちらに勝たれても困る」と語っている。
ちなみに日覚と書状を交わしている玄長は分家である下郡鵜殿の当主、また、大高での戦功を称された鵜殿十郎三郎は柏原鵜殿の系統となる(十郎三郎の娘が西郡殿と呼ばれる家康最初の側室で、後に北条氏直に嫁す督姫を産んでいる)。
三河国には強力な守護大名が存在せず、室町期は将軍直属の奉公衆を輩出していた土地柄だった。この故に、小規模な国衆が割拠する自由を知っており、織田にせよ今川にせよ一方的に制圧されることを嫌ったのだろう。逆にそれだからこそ、織田信秀も今川義元も軍事力を背景に圧力を掛けて国衆の勢力を殺ごうとしたと思われる。
こうした状況を終息させるべく、義元は西三河で最大勢力を持っていた松平氏の当主元康を担ぎ出してきたものと考えている。