『日本史さんぽ』で、ケイメイ氏が興味深いエントリをしていた。「永禄2年10月19日の理由」というタイトルで、大高城補給の感状がわずか4日後に出ていたことから、「去十九日」は感状が発給された10月ではなく9月19日ではないかという疑問を呈されていた。しかしその場合は「去月十九日」と書くのが通例であることから、10月19日の4日後に今川義元は感状を発給したと見てよいと思う。では、駿府にいたのでは間に合わないのではないかというケイメイ氏の疑問はどのように解決できるだろうか。
そこで、義元の感状が戦闘発生後どのくらいで発給されたのかを挙げてみる(越年したり期間が半年を越えるものは除く)。表の最後の地名は戦功を挙げた場所となる。
2日後 | 4月24日→4月26日 | 寺部(豊田市) |
3日後 | 4月15日→4月23日 | 衣(豊田市) |
3日後 | 9月25日→9月28日 | 土狩原(長泉町) |
4日後 | 10月19日→10月23日 | 大高(名古屋市) |
6日後 | 8月16日→8月22日 | 今井狐橋(富士市) |
10日後 | 9月5日→9月15日 | 田原大原構(田原市) |
12日後 | 8月4日→8月16日 | 作手名化(新城市) |
13日後 | 11月23日→12月7日 | 安城(安城市) |
14日後 | 5月17日→6月2日 | 名倉舟渡橋(設楽町) |
15日後 | 9月5日→9月20日 | 田原(田原市) |
27日後 | 3月19日→4月17日 | 小豆坂(岡崎市) |
27日後 | 9月18日→10月15日 | 桜井(安城市) |
29日後 | 11月8日→12月23日 | 安城(安城市) |
29日後 | 11月23日→12月23日 | 上野端城(豊田市) |
29日後 | 11月23日→12月23日 | 上野南端城(豊田市) |
99日後 | 3月19日→7月1日 | 小豆坂(岡崎市) |
先の投稿で今川義元の出征は少なかった旨を書いたが、1550(天文19)年の衣城攻めでは現地に赴いていたようだ。これは後の9月27日に伊勢神宮御師宛に就今度進発、為立願於重原料之内百貫文とあるのでほぼ確実だろう。同様に、僅か2日後に発給していた1558(永禄元)年4月26日の足立右馬助宛感状から、この前後には三河で督戦していたと考えられる。
また、1545(天文14)年の対後北条戦の土狩原・今井狐橋も義元が親征していたのは『高白斎記』によって判っている。
その一方、田原攻めで天野氏が感状を受け取ったのは15日後だが、仲介の約束をした太原崇孚の感状は9月10日。すなわち、合戦5日後に現場指揮官の崇孚が暫定で感状を発給し、正式に義元が発給するのがその10日後となる。この時義元は駿府にいたと考えてよいだろう。
ここから敷衍すると、1559(永禄2)年10月23日に義元は三河で陣頭指揮をとっていたことになる。ではいつから三河入りしていたのかという点だが、最長で捉えると前述の永禄元年4月26日からの滞在。ただそれでは少し長過ぎるように考えられる。そこで注目したいのが、永禄2年5月23日付けの「今度彦九郎号上洛、中途迄相越、親類被官人為書起請文、対清房相企逆心、」という氏真書状だ。興津彦九郎が突然上洛を企てた原因はよく判らなかったが、三河から尾張に移っていた義元と合流しようとしていたとすれば合点がいく。その道中で親類と被官に起請文を書かせたという点と、それが父の清房に対する逆心になったと氏真が責めている点を合わせてみると、義元と氏真の疎隔を匂わせるように見える。また、松平元康の書状三河初見は永禄2年5月16日であることから、義元はこれより前に元康を帯同して三河入りした可能性も考えられる。
こんばんは。少々遅くなりましたが興味をもって拝見させていただきました。
確かに感状を戦(兵糧入れ?)の4日後に渡す性急さを含めてちょっと不思議なんですね。
永禄2年5月に元康が三河の定書を書いていることもあるし、義元は三河の支配体制を徹底させるために元康を伴って三河に入ったかもしれません。
今まで考えたこともなかったので、大変参考になりました。
コメントありがとうございます。ご参考になったようで何よりです。ケイメイさんのご示唆がなければこうした点に気づかなかったと思いますので、改めてお礼申し上げます。
鳴海原合戦については、いよいよ局地的な仮説構築に入ってまいります。自分でも突飛に思う説になりつつあります。至らぬ点はどしどしご指摘下さい。