史料漁りは完了した。本当はもっとほしいところだが、ないものはないので今仮説をまとめている。とはいえかなり複雑な構造になりそうだし、要点も多岐にわたるため、覚書を縷々記していこうと思う。

まず最初に、私のこの仮説では太田牛一や小瀬甫庵の『信長記』は一切考慮しない。1564(永禄7)年生まれの小瀬は同時代の人物とはいえない。また、1527(大永7)年生まれの太田は永禄3年に33歳ではあるが、鳴海原合戦については黙して語っていない(いわゆる『桶狭間』の記された「首巻」は自筆原稿が見つかっておらず作者は不詳)。太田が初期に祐筆をつとめた丹羽長秀の父親は水野和泉守被官だった可能性が高く、状況はよく把握していたと思うのだが……。

何れにせよ、当時の関係者が記した書簡などの一次史料で仮説を構築していく。これはこのサイトを始めた時からの方針だ。

では私は何を調べようとしているのか。長らく調査を重ねてきて自分でも模糊とした部分はあるため、改めて挙げてみよう。

主題は1560(永禄3)年5月19日に尾張国鳴海原にて戦死した今川義元。義元自身は戦国大名であって当主とはいえ戦闘に参加する可能性はあり、戦死すること自体は謎ではない。

一般的には、兵数の多い今川方がなぜ敗れたのかという議論を行なっているようだ。だが、義元の戦死を取り巻く局地的な兵数については史料がない。どんなに圧倒的な兵数を保有していても、的確に戦場に展開できなければ意味をなさない。少なくとも、総大将を喪失するという大敗北になったということから、今川方は兵数が劣っていたとみなすべきだろう。

「今川方は織田方より兵数が多い」という前提は、両家の勢力範囲から動員数を推測して戦場に当てはめているから成り立つ。しかし、近代の国民国家による徴兵制度のような動員が行なえたとは思えない。たしかに勢力範囲の広い大名は被官数も多いから動員可能数は大きいだろうが、あくまで可能性の範囲である。

シンプルに考えるならば「兵数が判らないなら、負けた方が少なかった」と考えた方が合理的となる。

総大将が戦死した今川義忠・武田元繁・宇都宮尚綱・陶晴賢・佐野宗綱といった例を見ても、強引な政策(外交・体裁)を重視し、戦況が不利になったのを立て直そうとして総大将が前線に出て戦死している。唯一の例外が、竜造寺隆信。島津に正面突破されて乱戦中に死んでいる(とはいえ沖田畷合戦前に行なった粛清によって求心力を失っていた点は大きく、やはり大局的に見て他者と同様に感じられる)。

これらの例を見ると、何れも我の強い専制的な大将に見える。しかし義元はそういうタイプではない。

こうしたことから最初に疑問に思ったのは、今川義元はなぜ尾張で死んだのか、という点だ。同時代の武田晴信・北条氏康・上杉輝虎たちと比べても、義元はほとんど出陣した形跡がない。前者の3名は明らかに陣中と思われる書状がいくつも見つかるが、義元については皆無である。今川家を見ても義忠・氏親・氏輝と割合親征した率が高いように見えるのだが、義元・氏真は出陣しなくなる(これも謎だが今は措く)。こうした傾向の義元が、紛争中の尾張東部で戦死したというのは解せない。上杉輝虎や武田勝頼であれば納得し易いのだが。

義元がわざわざ前線に出たのは、伊勢遷宮の経費負担の案件と、三河守任官が絡んでいるように考えている。前述した5名も外交・体裁を重視し、現場を軽視したため破綻したことを考えて、このことを詳しく検証したい。

ついで第2の疑問となったのが、義元と氏真の関係だ。息子氏真への家督継承は、弘治末年から永禄元年にかけて迷走している。ところが、義元戦死直後に氏真は大量の文書を発給して家督継承を既成事実としている。この直前まで、氏真の書状数は少なく、義元も数も減っている。このことを考えればよいか。そして、当主の継承か微妙なこの時期に尾張まで義元が出て行った理由は何か。ここは、甲相駿三国同盟の後継者問題が大きな要因だと考えている。さらに甲斐武田氏との関係でいうと、この時期武田氏は織田氏と急接近している。この原因として、美濃の斎藤氏が朝倉・織田・武田と断交して独自路線を選んだ経緯があるが、今川氏が武田氏との協調を考えるならば、尾張の織田氏と何らかの妥協点を見出す必要が出てきて、軍事的進出と譲歩によってある程度織田氏を屈服させるプランが考えられたのではないか。また、この作戦に同意できなかった氏真側は、尾張侵攻を冷ややかな目で見ていたように感じられる。だからこそ、義元戦死後に大量の文書を発給した、すなわち、義元の失敗を見越した、というか願っていた部分があるように思える。

最後の疑問は、なぜ鳴海城は陥落しないのか、という難題である。鳴海原合戦において、織田氏に対しての最前線は鳴海城である。だが、大高城は何度も後詰が言及されているし、沓掛城は合戦後に自落した(大高城も自落)。ところが鳴海城は後詰も自落もない。

地形的に見ても、北方の成海神社とはほとんど地続きで備えは甘く、城域も狭い。この鳴海城が義元敗死後も維持され、氏真の撤退命令を受けて整然と開城した。なぜ落ちないのか。感状がない点から、そもそも攻められてすらいないと思われる。付随して、毎月19日に大高後詰を行なった謎、刈谷城陥落の誤報がなぜ発生したかの謎、沓掛城で重要文書を失った被官たちの謎についても検討したい。

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2 comments untill now

  1. こまつ @ 2014-11-25 19:58

     大変ご無沙汰しております。いよいよ『鳴海原合戦』の仮説をまとめられるそうで、おとなしく待っていた甲斐がありました。今川義元が前線に出た理由と、義元と氏真の関係については、取り分け興味をそそられています。

     ところで、当方のブログ記事の誤りを折角ご指摘して下さったにも係わらず、未だに訂正できておりません。彼の箇所を訂正する前に、確認したい史料があるのですが、春以降、色々な事態に見舞われまして、地元の図書館にすら立ち寄ることができず、このように打ち過ぎてしまいました。誠に申し訳ありません。ちょっと今の状況では来年になってしまいそうなのですが、訂正後に改めて謝意を述べさせてもらいます。

     まずは覚書を楽しみにしております。

     

  2. コメントありがとうございます。

    こちらこそ長らくお待たせしてしまってすみません。鳴海城の件がどうにも解釈しづらく、見切り発車で論じてみようと考えています。お気づきの点がありましたら、お気軽にコメントして下さい。

    こまつさんのサイトの更新も楽しみに待っています。お互い気長にじっくりと意見交換できるといいですね。