森田善明氏の著(歴史新書y) 。

端的に述べてしまうと、史料を読む機会の少ない読者には危険な内容である。一次史料を使ってかなり踏み込んだ解析を行なっているのだが、あくまで相対的な仮説に過ぎない。

史実・真相・真実と書かれて「まあそんなこといってもそれは仮説だから」とか「その書状解釈違うかも。原典チェックしよう」と思うようなすれっからしの歴史好きならともかく、気軽に手に取った新書という形式から考えて、もっと素直な読者層もいるだろう。

いつの間にか本書の内容が既成事実として確定してしまわないように、老婆心ながら私の疑問点を記しておく。

「後北条氏が羽柴氏に外交的罠を仕掛けられて戦争に引きずり込まれた」というのがこの本の主張である。通説にあるように後北条氏の状況誤認識が原因ではなく、羽柴方の策略が滅亡の主要因だと説明している。

その根拠の1つに、羽柴秀吉が1589(天正17)年10月10日に戦争の準備をしたという事柄を挙げている。名胡桃城略取と北条氏政上洛遅延の問題が発生するのは11月以降なので、10月10日の秀吉の動きは、北条氏直がどう行動しようと開戦することの表われだとする。

10月10日の根拠として2つの文書を掲げているが、今回はその真偽を検討しない。なので、一先ず「真」として考える。また確かに、4月以降に羽柴方が東国の国衆に上洛を呼びかけることもなくなっている。その理由は以下のように説明される。

それはすでに「北条家討伐」が決まったからなのである。つまり、近々秀吉が、北条討伐のために関東に出向くことになるので、「関東や奥羽の諸大名を引見するのはそのときにしよう」となったのだ。

しかし、この動員は後北条氏を滅亡させるためだと断定できるだろうか。羽柴方が北関東の国衆への上洛要請を打ち切った1589(天正17)年4月は、後北条氏の臣従が明確になった時期でもある。ならばむしろ、東日本最大の大名が臣従してきたことをうまく使って、上洛を拒んでいる他の東国大名・国衆の服属を現地で進めようとした、という仮説も充分成り立つと思う。特に伊達政宗は怪しい動きをしているので、関東から東北にかけて本格的な軍勢を指揮して乗り込む必要があったのではないか。その足がかりとして後北条氏を使おうとした。

関東攻めの準備をしていた根拠とされる10月10日の長束正家宛の兵粮調達命令では、「小田原近辺の港へ船を送れ」と秀吉は書いている。だが、小田原周辺に良港はないのに、輸送船をなぜ相模灘に回漕させるのだろう。後北条氏との本格的な戦闘に入るのであれば、初動でいきなり伊豆半島を越えようとはしないだろう。相模灘が難所であることを見越して、早目に小田原へ物資を集積しようとしたのは、小田原で氏直の上に君臨し、ここで東国諸大名の出仕を受けようとしたように見える。

そもそも、本書が主張する策謀は目的が私には判らない。小田原開城後の知行替えで不服を言った織田信雄を軽々と改易したように、秀吉は圧倒的な政治力・軍事力を持っている。是が非でも攻める覚悟があるのに、『氏直が約束を守ってしまうかも知れない』ような微妙な条件を設定しなければならないのだろうか。佐野房綱や妙印尼辺りのカードを切った方が手っ取り早かったろうにと思う。

このほかにも色々と解釈に不自然な部分があるので、気づいた点をざっと記してみる。

まず、『家忠日記』の解釈。

相模(北条家)が真田の城を一つ取ったので、加勢に行く(155ページ)

と記述している。原文も書内に掲示されている。

さかみより信州真田城を一つとり候間、手たしにまいり候(163~164ページ)

疑問なのが「より」を「が」としている点。また、「手たし」を「加勢」としている点もおかしい。私が解釈するならば、

信州真田が相模より城を一つ取りましたので、手出しに行きました。

となる(現代語風に主格を先頭に移動した)。城を奪ったのは真田氏であると解釈した方が自然だろう。更に、「手たし」が「加勢」を意味するという例は見たことがない(逆に、本書内で引用されている氏直書状では「加勢」がそのまま出てくる)。「合力」ならば「加勢」の言い換えになるだろうけれど。「手たし=手出」は侵攻・攻撃の意ではないか。つまり、家忠が書き留めた内容は、真田が後北条の城を奪ったので後北条が反撃した、ということだ。事実がどうかはともかく、家忠が聞いた風聞はこうだったのだろう。

次いで、名胡桃城を奪われたと真田信幸が徳川家康に報告した書状のこと。

来書披見した。しからば、名胡桃のことはわかった。ついては、そちらの様子は京都の両使(富田一白・津田盛月)がよく存じているので、そのほうから両人へ使者を送って報告するがよかろう。それはそうと、菱喰(ヒシの実を食べるカモ科の冬鳥)一〇が届き、うれしく思っている。なお、くわしくは榊原康政が述べよう。

<中略>

まるでこの件にはかかわりたくない、とでもいいたげな態度を示していたのだ。(167ページ)

と解釈している。だが、私の解釈は異なる。

書状拝見しました。ということで、名胡桃のことはその意を把握しました。そういうことなら、あなたの状況は京都の両使者も知っていますので、すぐ両人にあなたの使者を送ります。きっと披露してくれるでしょう。そしてまたヒシクイ10羽が来ました。嬉しいことです。さらに榊原式部大輔が申し上げるでしょう。

「則彼両人迄其方使者差上候」を、著者は勘違いしている。その主張する解釈をとるならば、後半は「自其方使者可差上候=其の方より使者差し上ぐべく候」となるはずだ。「可」がないのは、既に家康が信幸からの使者を独断で京へ送ったからだろう。その後で信幸に事情を説明したのがこの書状だと思う。また、本書の説明文では、ことさら贈答品の礼を書いて、家康が話を逸らしているかのような印象を与える文章構造になっている。これは、一般読者に対する誤誘導になりかねない。この時代は、切迫した状況でも贈答品の礼はきっちり書くものである点は指摘しておく。

本書はまた、事件以前から名胡桃城は後北条方だったと結論づけているが、この解釈にも疑問がある。

氏直は、「すでに真田が手前へ渡したものなので、奪い合う必要もない」といっている。要するに、北条家は、「沼田城といっしょに名胡桃城も譲渡された」と認識していたのである。(178ページ)

これは冨田左近将監・津田隼人正宛て氏直書状にある「既真田手前へ相渡申候間、雖不及取合候」から推測しているのだが、事件発生時に真田方の城主中山某が後北条氏へ渡したという従来の解釈でも矛盾はない。

氏直は同文書内で、上杉氏が「信州川中嶋ト知行替」として出動したことを訴えており、そうなったら沼田城が危ういので「加勢」した、としている。真田氏と上杉氏の間であれば、川中島と名胡桃との知行替えは想定可能であり、名胡桃城主の中山が上記知行替えを理由に後北条方に帰属した際の証拠が「中山書付」と考えれば文脈上問題がない。

森田氏の主張のように名胡桃が事件前から後北条方だとすると、川中島との知行替えとは何だったのか不明になってしまう。このことについて同書では以下のように曖昧な推測しか提示できていない。

「信濃の川中島と知行替えだと申して越後衆が出勢してきた」というのも、上杉家が川中島の軍勢を右のいずれかのルートで吾妻郡に派遣したものと想像できる。(182~183ページ)

※高村注:「右のいずれかのルート」は、川中島から嬬恋・草津を経て吾妻郡に抜ける経路を指す。

川中島と知行替えとなったのはどこだったのか。この点が判らないと本書の仮説は成り立たないだろう。

また、198ページで北条氏規の11月晦日の書状を1589(天正17)年に比定しているのも疑問だ。下山治久氏の『戦国時代年表後北条氏編』と黒田基樹氏『小田原合戦と北条氏 (敗者の日本史)』はどちらも、この文書を前年の天正16年に比定している。これは文中で足利のことが触れられている点を考慮してのことだろう。長尾顕長はこの当時後北条氏から離反して攻撃されていた(翌年2月20日には降伏が確認される)。天正16年だとすると、その前の8月に上洛した氏規が引き続き徳川家を通じて交渉を継続している時期でもあって、彼が家康との外交を担っているのも自然である。

ちなみにこの文書を1589(天正17)年としているのは『武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望―天正壬午の乱から小田原合戦まで』(平山優・著)と小田原市史であるが、それが定説となっているかは疑問(どちらも「足利」への言及はない)。

※本書末尾の参考文献では『戦国時代年表後北条氏編』も『小田原合戦と北条氏』も含まれておらず、この点疑問に思った。どちらも非常に重要な書籍であると私は考えている。何か理由があるのだろうか。

氏直が家康に対して事情を陳弁した書状についても、本書は解釈を誤っている。

「上洛遅延のこと御状にありましたが、約束を違えた覚えはありません。十二月上洛の予定を一月、二月に移したというのならば、そうともいえましょうが」(194ページ)

上洛遅延之由、被露御状候、無曲存候、当月之儀、正、二月にも相移候者尤候歟

この原文を私は以下のように解釈した。

上洛遅延のことを披露したお手紙。つまらないことです。当月のこと、1月・2月にも移せばよいものではありませんか。

「無曲」は「つまらない・面白くない」という意味で使われる。これを「約束を違えた覚えはない」とする根拠はない。「相移候者尤候歟」は、「相移」が「移す」で「候者=そうらえば」は「であれば・ならば」、「尤」は現代語でいう「ごもっとも」と同じでよいだろう。「歟」は疑問形を表わす。ここで懸案となるのが「尤」の扱いで、この部分だけさらに抽出して意味を出すと以下のように違いが出る。

  • 高村解釈:1月でも2月でも移してしまうのが「尤」なことだ
  • 森田氏解釈:1月や2月に移したとしたら上洛遅延と言われるのも「尤」なことだ。

どちらも文脈上可能な解釈ではあるが、陳弁という状況を考えるとどうだろう。「上洛が遅れたじゃないか、12月に来ると言っただろう」と怒っている相手がいて、その仲介者に向かって「2月」をわざわざ言及するだろうか。森田氏の解釈に従うならば「そもそも約束は1月だった」と真っ先に言うのではないか。

更に補足すると、「~というのならば」としているのに原文には仮定を示す「若」がない点、「歟」を「が」としているがその実例はない点からも、著者の解釈は不自然である。

加えて氏直が弁明した冨田左近将監・津田隼人正宛て書状の全貌を正しく開示していない。氏直は「安心して上洛できない」という点を書状の初めに強く訴え、家康の折には秀吉は人質を出したのにと引き合いに出して地位向上を狙っている。家康宛書状でも、安心して上洛させてほしいと強く訴えている。氏直の弁明2文書は極めて重要なので、全文を詳細に検討し掲載すべきではないだろうか。

もう1点見逃せないのが、佐々成政が羽柴秀吉に攻められた際の記述。

信雄をとおしておこなわれた和睦交渉は、「誓紙も人質も受け取っていない」という、ほとんどいいがかりに近い、手続き上の不備を理由に退けられたのである。(205ページ)

これはさすがに解釈・仮説の問題ではないと思う。難航した相越同盟の紆余曲折を考えると、起請文・人質は外交上重要な要素だろう。軍事力で圧倒的な優位にある秀吉に対して、何も提出せずに「攻めないでほしい」と依頼するのは、むしろ成政の方が無茶に思える。この点も、古文書を直接見る機会のない読者に誤解を植えつけることになるだろう。

ここに挙げた部分に関連しない記述では、猪俣邦憲の実像をきちんと描いたり、徳川家との同盟関係を判り易くなぞったりしており、史料を丁寧に解釈している。ただ、冒頭で既に述べたことだが、今回細かく取り上げた恣意的解釈、考え違いが論旨の基点をぶれさせ、結果として史料を省みない強引な後北条擁護論になっている。

名胡桃城の問題は、更に考えるところがあるので、この後に詳細に検討してみる。

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