1589(天正17)年8月頃に行なわれた沼田領引き渡しでは、通説だと以下のように理解されている。
1.沼田城 真田氏から後北条氏へ羽柴方監視のもと引き渡した
2.名胡桃城 真田氏が保有したまま
そしてこの状態が11月の名胡桃問題で、
1.沼田城 後北条氏が保有したまま
2.名胡桃城 真田氏から後北条氏が奪う
となったとされる。だが、このことを説明した北条氏直書状写を細かく読むと、かなり様相が異なる仮説が成り立ちそうだ。
まずは原文の該当部分を見てみる。
名胡桃之事、一切不存候、被城主中山書付、進之候、既真田手前へ相渡申候間、雖不及取合候、
これを私は、
[note]名胡桃のことは、一切知りません。城主中山の書付を進呈します。既に真田がこちらへ渡していると申していますので紛争ではありませんが、[/note]
と解釈した。ここでは「既真田手前へ」を「既に真田がこちらへ」としている。しかし、『手前』が「こちら」とか「自分」を指す用法なのか、原文を読んでいるうちに不図、疑問に思った。そこで用語として『手前』がどのように使われていたかの実例をリストアップして検証した。
その結果、「手前」の直前に人称が使われている5つの文例では、「<人称>の<手前>」という用法であることが判った。
一間之内にて人ゝ之手前各別候者→1間のうちでそれぞれの作業範囲が別だと
於新太郎手前致討死候→新太郎の前で討ち死にしました
彼替従其方手前可出由御心得被成候→その替地をあなたの手元より拠出するべきだとしているとのこと
就拙者手前不罷成→私のやり繰りがまかりならなかった件で
殿様御手前相違申候ハぬやうニ→殿様のお手前相違のないように
そうすると、「真田手前へ」も「真田が手前へ」ではなく「真田の手前へ」と読む可能性がある、というよりも、そちらの可能性の方が高いのではないか。
既真田手前へ相渡申候間→既に真田の手前へ渡していると申していますので
解釈を試みると上記のようになる。そこで、前後の文と合わせて解釈してみよう。
[note]名胡桃のことは、一切知りません。城主中山の書付を進呈します。既に真田の手前(手元)へ渡していますので係争に及ぶものではありませんが、[/note]
つまり、名胡桃は沼田割譲の前に後北条氏が領有しており、割譲に当たって真田氏に渡したことなる。実は前々から、より明確な「当方」「此方」を使わず「手前」を用いていたのが疑問ではあった。謙譲の意があって「手前」を使ったのかと推測してみたが、ほぼ同時期に徳川家康に宛てた氏直書状写では「名胡桃努自当方不乗取候」と書いており「当方」を使っている。この点も、手前は「こちら」ではなく「手元」の意だという仮説を補強する。
この仮説に基づくと、文中にある不自然な2点もさらに解消する。
逆接「雖」の不可解
氏直が名胡桃について触れた文章は以下のように分解できる。逐次解釈を試みよう。
名胡桃之事、一切不存候
名胡桃のこと、一切存じません
被城主中山書付、進之候城主とされる中山の書付、これを進めます
まずは重要な主張を先頭でシンプルに書いている。判りやすい。「城主とされる」とあることから、中山某は真田方だったと判る。書付を氏直が持っているということは、後北条方への寝返りがあったのかも知れない。
既真田手前へ相渡申候間
すでに真田がこちらへ渡しておりますので
雖不及取合候取り合いに及ぶものではありませんが
通説だと「真田がこちらへすでに渡したのだから奪ったのではない」と解釈する。先述した家康への書状で「自当方不乗取候=こちらから乗っ取ったのではありません」とあることから、「既に真田方が明け渡した城を接収したので紛争ではない」という意図を読むことになる。
だが、それだと「雖」は不要なのだ。むしろない方がすっきりする。もう少し読み進めてみる。この後に、上杉が知行替えだといって出撃したことや、そうなると沼田が危ういという判断をしたという氏直の推測がくる。
越後衆半途打出、信州川中嶋ト知行替之由候間
越後衆が途中まで出撃し、信州川中島と知行替えだということなので
御糺明之上、従沼田其以来加勢之由申候ご糾明の上、沼田よりそれ以来加勢の由申しました
細かく見てみると、現代文でいうところの「」(かぎ括弧)内の文言で、発言者をわざと氏直は書いていないが恐らく猪俣邦憲だろう。
「御糾明」とあるのは、邦憲が氏直に上申したことを指すと思う。この後で構文が崩れてやや不明瞭になるが、沼田の邦憲から加勢に行きたいと打診があったのだろうか。さらに氏直の見解が続く。
越後之事ハ不成一代古敵
越後のことは一代ならざる古敵です
彼表へ相移候ヘハ、一日も沼田安泰可在候哉あの方面に移るならば一日も沼田は安泰でいられましょうや
まあここまでは言い訳の羅列。「上杉が名胡桃に入ったら沼田は維持できない」と判断したと。問題はその後で、
乍去彼申所実否不知候
さりながら、かの申すところ実否は知りません
上杉氏南下の情報が実在するかは知らない、と氏直。確証はないと自分で言っているのだ。証拠は中山書付だけだったのだろう。他の情報源から確認をとらず、一片の書付だけで前線に攻撃命令を出したということだ。
従家康モ、先段ニ承候間、尋キワメ為可申、即進候キ
家康からも先段承りましたので、尋ね究めるため、すぐに進めていました
二三日中ニ、定而可申来候二三日中にきっと連絡があるでしょう
さらに衝撃的な記述が続く。家康にも確認を取っていなかったことが判る。外交上これはまずいように思うが、氏直は強気だ。
努ゝ非表裏候
ゆめゆめ表裏ではありません
いやどうだろう、表裏(卑怯な振る舞い)じゃないかな。という思いはさておき。先に説明した逆接「雖」が、ここに来てさらに物騒になる。
[note]真田からこちらへ渡されたもので取り合いではありません。<<でも、>>危なそうだから自己判断で加勢しました。表裏ではありません。[/note]
個人的な感覚もあるかと思うが、釈明文でこの逆接は不要だ。「其故者=その訳は・なぜならば」辺りでつなぐのが普通だと思う。「則」や「然者」でもいいが、とにかく順接だろう。なぜ逆接を用いたのか……。
名胡桃検分の謎
しかも、氏直はこの後に奇妙なことを書いている。
ナクルミノ至時
名胡桃の時には
百姓屋敷淵底、以前御下向之砌、可有御見分歟事 百姓屋敷の淵底、以前御下向の際に御検分なさったでしょうか。ということ。
「至時」は用例が見つからないので一先ず「とき」としておく。「名胡桃のとき」というのは「以前御下向」と併記されていることから沼田割譲時を指すと思われる。この際に、冨田・津田の両氏が名胡桃の領地を詳細に調べたことを書いているのだろう。
割譲前後で名胡桃がずっと真田領ならば、何故検分が入ったのか。沼田と名胡桃が地続きであれば判らなくもないが、実際には利根川で分断されている。しかも、真田領の内容を冨田・津田が調べたことをこの局面で何故言い出したのかも判らない。
新解釈で再検討
ではここで、新たな仮説に沿って解釈を試みよう。後北条方だった名胡桃は、沼田と引き換えに真田方に渡す裁定が下り、冨田・津田が監視役として仕切ったという前提だ。
[note]
名胡桃のことは、一切知りません。城主とされる中山の書付を進呈します。
既に真田の手元へ渡していますので、取り合いに及ぶものではありません。
<<でも、>>
「越後衆が途中まで出撃しており、信濃国川中島と知行替えだと申したとのことです。ご糾明の上で加勢したい」と沼田からそれ以来連絡がありました。
越後のことは一代ではない古敵です。あの方面に移動したならば、沼田が一日でも安泰でいられましょうか。
とはいえその報告は実否を知りません。家康よりも先段承りましたので、徹底究明するべきだとのことで、すぐに進めていますから、二三日中にきっと報告があるでしょう。
間違っても裏表はありません。
名胡桃のとき、百姓屋敷の明細は以前下向なさった際に、お見分けあったでしょうか。ということ。
[/note]
「一旦は潔く渡したものを、強引に取り返す筈もない」というのが氏直の最初の論点になる。「雖=でも」と続けて、渡した相手は真田であって上杉ではないという根拠で「条件が違うなら取り返してもいいと判断した」と強弁する。そのすぐ後に、情報が不確かであることを認め、確認作業を依頼している。文面には出さなかったものの「事実誤認なら再び真田に渡す」という暗示として、以前真田方へ引き渡した際は「百姓屋敷淵底」まできちんと確認したと補記している。こう捉えていくと全体が自然に感じられる。
ちなみに、このすぐ後に「真田は中条の地をこちらに渡す際に嫌がらせをした」と書き立てたのも、「自分たちは正直に渡したのに」という憤りが誘発されたからではないか。
純粋に文言の読み込みでこの仮説を書いてみた。後北条方が名胡桃を手に入れたのはいつか、「加勢」は誰に対して行なったのかなど、更に疑問が出てきているので、引き続き機会をみて考えていきたい。