前回の問題提起で、以下の謎を出してみた。
1)文中で氏政から偏諱を受けようとしているのは誰か?
2)氏政に書付を送った斎藤とは誰か?
3)この文書はどこで書かれたのか?
4)この文書はいつ書かれたのか?
ここで『後北条家臣団人名辞典』を当たると、2は意外と簡単に出てくる。天正年間で活躍が見られ、活動範囲が北武蔵から上野、氏邦の配下として出てくる斎藤摂津守定盛と断定してよいと思う。
また4だが、文中に「苗代」が出てくる事から、苗代踏み付け作戦は田植えの下限である半夏生からその30日前と考えてよいと思う。大体ではあるが、4月15日~5月15日。戦場で田植えに入れないことを想定すると、ぎりぎり6月上旬も入るかも知れない。
ここに、氏政が隠居して截流斎を名乗ったのが1580(天正8)年8月19日である点、1590(天正18)年はずっと小田原に籠もっていた点を合わせると、天正9~17年の4~5月と絞れる。また、天正10年は武田氏が滅亡して上野国には滝川一益が駐屯、氏邦ですら出仕していた点も考えると、天正10年も除いてよいだろう。氏規上洛から引きこもっていたとされる天正17年も除外したい気持ちはあるが、慎重を期して残しておく。
このうち、氏政が確実に出陣している天正9年と12年を中心に検討を進めていこうと思う。