史料を何度も見ているうち、最初の解釈の通りではないかも知れないと気づいた。
何方之押ニ候哉、
まず氏政はここで質問している。「押」というのは部隊を繰り出す部分を指す。この質問と文末「乍次申候」から考えて、出撃地点の決定は氏邦が行なう可能性が高い。つまり、氏政はこの作戦で「お客さん的援軍」なのだと思われる。
昨日の所ならハ、
既に前日攻撃している範囲を指している。前日とは異なる場所に繰り出す可能性があるということだ。
昨日の松山与上州衆あかり候高山と、
同じく前日のことを指す。ここを私は「松山衆と上州衆が上がった」と解釈した。
A案:松山・上州衆が上がった高山と
と考えたのだが、松山も知名であり、高山と並立するとする読み方もある。
B案:松山と、上州の衆が上がった高山と、
つまり、松山は説明なしだが、高山については「上州の衆が上がった」という説明が付記されているという読み方だ。こう解釈すると、続く文が自然に流れてくる。
其間往覆の道ニなわしろ共多候キ
「その間」をA案で考慮すると、高山に呼応する場所が判らなくなる。走り書きのような書状なので、一先ず「敵の城」と仮定してみたが若干苦しい。その点B案ならば、松山と高山の間の往還を指すのは自明である。
次に、松山は単に名称だけ呼び、高山は修辞をつけた要因について考える。氏政は「松山はよいが高山は説明を入れたい」と考えたのだろう。その理由として2つ考えられる。
C案:氏邦が近辺の地理に不案内で、氏政から説明が必要だった。
D案:氏政が近辺の地理に不案内で、氏邦に説明できるか不安だった。
C案は、直接指揮下にある上州衆が赴いた地点を氏邦が把握していないのは不自然だ。どちらかといえばD案、氏政の方が不案内で、高山という地名に確信が持てず「上州の衆が上がった」と足すことで、誤認識の危険を避けたのだと思う。
誤認識の忌避でいうなら、「松山」「高山」は固有の地名だと推測した方がよい。「松が多い山」、「小高い山」を記述した可能性も残るが、短文とはいえ戦術指示書で曖昧な地名を付すとは考えにくい。高山については上州衆が上がった地点だから具体的だが、それでも取り違える可能性は残される。ましてや、「松が多い山」などと言ってもどの山かは特定できない。
後北条氏にとって自明の「松山」といえば埼玉県東松山市の松山城だが、1581(天正9)年以降で戦闘が行なわれた史料はないし、状況からいって考えにくい。
また、高山城というと、群馬県藤岡市南西に大規模な山城として存在する。しかし、この拠点は後北条氏にとって天文末年の平井城攻めからの馴染みの城であるから氏政のうろ覚えと矛盾する。北方の榛名南西麓に「松山城」もあるものの、かなり距離があるし直接つながっている古道も見当たらない。この線は薄いだろう。
地理的な面から考慮すると、松山と高山のセットをどこかで見つける必要がありそうだ。