このサイトでも度々紹介した鴨川氏の『武田信玄と勝頼』では、1通の複雑な書状を巡る謎を追う中で、古文書の基本的な機能を語る手法を使っている。それにあやかる訳ではないが、先日後北条氏での究極の難文書と思えるものに出会った。その際に検討した事を備忘しておこうと思う。

北条氏政、北条氏邦に、字を進ずること等を伝える

この書状はメモに近く、非常に短いものである。全文引用してみる。

字之儀承候、進之候、又夜前さい藤書付披見、心地好専要候、又何方之押ニ候哉、昨日の所ならハ、昨日の松山与上州衆あかり候高山と、其間往覆の道ニなわしろ共多候キ、うちはを入こね候由、尤候、乍次申候、

 以上

「(ウワ書)房  截」

宛先と差出人は簡単に判る。「ウワ書」=「上書き」とあるのは、書状にかけられていた紙を指す。つまり、房=安房守=北条氏邦に宛てて、截=截流斎=氏政が書いた短信だろう。

兄から弟に宛てた気軽な通信だったと推測すると、文頭の挨拶がないのも納得できる。「字のことは承知した」というのは、誰かへの偏諱を氏政が了解したということで、それを斡旋した氏邦に返答したのだろう。「これを進めます」と続くので、「氏」か「政」の字を、氏邦が推す誰かに与えるのだと判る。まず最初の謎は、この偏諱受領者は誰かということになる。

そして、ここでいきなり話題が変わる。「また、夜前に斎藤からの書付を見たよ」とある。書付というのは箇条書きになった短い報告書。ということは、氏政が書いているのはその夜から翌日夕方までの間だと考えられる。翌日の夜になってしまうと「昨日の夜前に見たよ」となるからだ。で、その感想は「心地よく専要です」と。この言い回し「心地よく」も「専要」も彼らはよく使う。「専要」は謎だ。「専一=優先順位が高いから専らこれ1つにせよ」と、「肝要=肝心で重要」がミックスされた表現……なのだろうと思う。

「心地よい」と「肝心で重要だ」をくっつけて使うのはさすがにこの文書だけだが、それだけに気安い表現では「いいね、大事だよ」といった使用になるのかと思う。ここで第2の謎。「斎藤」が誰か。割合見かける苗字で特定は難しい。

先に進もう。

次の文は「また、どこから攻撃するの?」と、ここで更に話題変更。思いつくままに書き散らしているような感じを受ける。更に次の文で「いいこと思いついたよ」という内容になるため、これが書きたくていきなり話題を変えたのだと判る。「昨日と同じ場所なら、昨日松山衆と上州衆が登った『高山』と『其=敵城』の間を往復する道に……」とまくし立てる。「昨日」が重複しているのが口語に近く生々しい。で、氏政はその道に苗代がいっぱいあったので「うちはを入こね」ようぜ、と弟に持ちかけている。興奮し過ぎたのか仮名書きになったため「うちは」が何か不明だが、邪悪な意図は感じられる。敵にとって大切な苗代を踏みにじってやろう+相手からよく見える場所でこれ見よがしにやろう、という感じだと思う。提案の最後が「由=よし」となっているが、これは伝聞の「よし」ではなく「知る由もない」で使われる方法の「よし」だろう。ここでこの書状の舞台が少し姿を見せる。『高山』が抽象的な地形を指すのか、具体的な地名を指すのかは不明だが、松山衆と上州衆が同陣し氏邦が登場していることから、武蔵北部から上野近辺が戦場ではないかと推測できる。それ以上の特定は難しく、場所がどこかということが第3の謎となる。

その後に畳み掛けるように「尤候=よいです」と自画自賛した後で「ついでながら申します」と急に謙遜する。それまでは「この作戦凄いだろ」だったのが奇妙な感じだが、氏政はよくこういう書き方をする。

よくよく考えてみると、戦国の関東に覇を唱えた後北条氏の大御所とその弟が仕掛けようとしている作戦が「相手の見えるところで農地を踏み荒らす」である。何だか近所のおじさん達が小競り合いしているような感じだ。ここから、武者めくという事というエントリを導き出してみた。戦国大名はたまにしか本気で戦っていなかったという仮説だ。

この文書、最後に日付が書かれていない。だから、日時の特定が実に難しい。これが第4の、最大の謎だ。

この時代の文書は月日しか書かれていない事が多い。12月26日などと書かれていた場合に、それが何年かを比定する作業が必要になる(年次比定)。年が書かれた史料を軸にして、月日でつなげて流れを作る。だから新しく史料が見つかるとドミノ倒しで多数の文書=事象が組み替えられる場合がある。月日がないので、この書状では足がかりが全くない。

では仮説は一切出てこないかというと「何となくこうじゃないか」というものは浮かんでくる。それを次回展開してみよう。

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