史料上の制約から明応地震の文献上の調べは諦めつつあったが、信州大学工学部の『東海沖四大地震の震度分布(明応・宝永・安政東海・東南海地震)』(地震予知連絡会会報35巻)を読んで少し認識が変わった。最初にまとめ部分がある。

  1. 四地震共に遠州灘沿岸に震度Ⅵ以上の地域が存在するが,宝永・安政東海地震のそれは駿河湾奥まで広がっている。
  2. 四地震共に伊勢湾沿岸に震度Ⅵ以上の地域が存在する。
  3. 宝永・安政東海地震では甲府盆地でも震度Ⅵ以上となった。安政東海地震では富士川両岸の村々でも震度Ⅵとなった。
  4. 震度 V の範囲は宝永・安政東海地震共に近畿以北においては,ほぼ同じであるが,宝永地震がやや小さい。これは史料の量が少ないことによるのかもしれない。東南海地震のⅤの範囲は前の 2 つの地震に比べあきらかに小さい。
  5. 明応地震については史料が少なく決定的なことはいえないが,今の史料状況からいえることは,安政東海地震の震度分布と良く似ていて,その震度枠は超えない。

明応地震が江戸期の宝永・安政東海の大地震と同じ構図であったとすると、富士川両岸と甲府盆地が甚大な被害を受けたこととなる。これは妙法寺記(勝山記)が記す、武田信縄・信恵の和睦とそれに伴う足利茶々丸の切腹と適合する。

信縄と信恵が和睦したのは、甲斐国での地震被害が大きかったことを窺わせる。そして、茶々丸を伊豆から追い出した伊勢宗瑞と都留郡で紛争していた小山田氏は信恵派だった。そうなると、山内上杉氏を経由して甲斐入りした茶々丸を支えていたのは信縄だと思われる。

甲斐が地震で壊滅した場合内戦停止は当然の措置である。その際、今川氏親・伊勢宗瑞と関東管領上杉顕定のどちらを採るかが議論されただろう。駿河・伊豆・相模も被害を受けたとは思うが、それよりも甲斐が厳しい状況になったと想定すると、損害軽微だが遠隔地の顕定よりも、より被害の大きな甲斐を狙っている近接地の氏親・宗瑞のほうが脅威だったと。

安政東海地震の被害が上記レポートに抜粋されているが、被害家屋がなかった元吉原と、503軒中で全壊276・半壊145だった吉原は、約2km程しか離れていない(元吉原は今井の元吉原小学校付近・吉原は吉原本町駅付近)。こういった事例があると、同じ震災地でも拠点が壊滅した地域と軽微だった地域に分かれるだろう。

拠点それぞれについては、明応の史料が殆どないため難しい。また、安政東海を援用するとしても、沈降・隆起のほか埋め立てなどで地形が変わっている可能性も考慮せねばなるまい。とはいえ、可能性が出てきたのはよいことだ。

Trackback

no comment untill now

Sorry, comments closed.