中村方三郷事、任桃岩判形之旨、令扶助候、如先乱知行、於末代不可有相違者也、仍状如件、

天文廿壱

十月廿一日

三郎 信長(花押)

玄蕃允殿

→愛知県史 資料編10「織田信長判物」(尊経閣古文書纂 編年文書)

 中村方三郷のこと。桃岩の判形の通り扶助する。先の決まりのように知行し、末代まで相違がないように。

就商買之儀、前々出置如判形、田畠・野浜・屋敷等、欠所之儀、雖申付、不可有別義之、次今度錯乱、御器所近所下地并賀藤省安・同十右衛門尉分、次所申付候共、任代々免許旨、不可有相違者也、仍状如件、

弘治四年

 正月廿七日

信長(花押)

賀藤紀左衛門尉殿

→愛知県史 資料編10「織田信長判物」(西加藤家文書)

 商売のこと。以前から出している判形のように、田畠・野浜・屋敷などで欠所と指示したとはいえ、例外はない。またこの度の錯乱で御器所周辺の下地と、加藤省安・十右衛門尉の分を所領として与えたのも、代々の免許のとおり相違があってはならない。

参河国高橋庄内長興寺領之事

右、代物参拾参貫五百余、米八石六斗八升、其外被拘来山林等、如年来永不可有相違、并諸塔寮舎余是又任前々寺務領掌訖、[目録別紙加印判、]門前在家参拾間棟別諸役如近年免許之、末寺之僧出仕就無沙汰者、可被相押、弥修造勤行不可有怠慢者也、仍如件、

天文廿三

十一月三日

治部大輔 在判

長興寺

→愛知県史 資料編10「今川義元判物写」(長興寺文書)

 三河国高橋荘内長興寺領地のこと。右は、地価30貫500余文と米8石6斗8升、そのほか所持してきた山林など。年来のとおり末永く相違ない。併せて諸々の塔・寮・舎などもまた以前のとおり寺で掌握するものとする(別紙の目録に印判を加える)。門前と在家30間の棟別課税は近年のように免除する。末寺の僧で出仕しない者も押されますように。ますます修行と勤行に怠慢することのないように。

大浜之下宮神領大略売渡、其身者闕落分由候、曲事候、雖然酒井与四郎親類之事候て、懇望仕候、此神領誰々買候共、不可有異儀候、乍去広忠一行出候儀者、相違有ましく候、惣別向後も不及理、神領買仕候者、双方可成敗者也、仍如件、

天文十弐卯

十二月十七日

広忠(花押)

長田甚助とのへ

→愛知県史 資料編10「松平広忠判物」(長田忠行氏所蔵文書)

 大浜の下宮が保有する領地の大半を売却し、あなたは退去したとのこと。よろしくないことです。とはいえ、酒井与四郎が親戚のことだと陳情してきましたので、この領地を誰が買ったにせよ異議を唱えてはならない。しかしながら、広忠が一筆書き出したからには相違があってはならない。総じて今後も審議には及ばず、領地を売買した者は双方処罰するものとする。

甲辰 十三 九月廿二日未刻、濃州於井ノ口 尾州衆二千人打死、大将衆也、

→愛知県史 資料編10「定光寺年代記」(定光寺文書)

1544(天文13)年の条項。

(軸裏)

藤原織田勘十郎

菅丞相御自筆主像

熱田太神宮

令寄進者也

天文廿二年[癸丑]六月吉日

→愛知県史 資料編10「菅原道真画像墨書銘」(熱田神宮)

右遣候免許之旨、相違有間敷上者、於向後、為何闕所方、年記・徳政・国役・要脚・質物以下懸申候事雖有之、一切諸事令免許、此方諸奉公人、其方者と喧嘩口論有共、其相手対一人、遂糾明可申付候、并諸事使入事、其方家来馬荷物郷質取事、令免許候、然上者免許令破棄共、不混自余、於末代不可有相違候也、仍状如件、

天文廿三

拾二月日

達成(花押)

加藤図書助殿

→愛知県史 資料編10「織田達成判物」(加藤文書)

 右に発給した免許の内容に相違はないので、今後においてどのような没収地・年期売り・徳政・国の課税・売却・質入などが発生したとしても、全ては免許とし、こちらの諸奉公人があなたと喧嘩・口論したとしても、その相手一人に対して糾明を行なって指示するでしょう。同時に、譴責使が入ることと、あなたの家来が馬・荷物を郷質として取ることは免許とします。その上で、免許が破棄されるとしても、その他とは異なり、末代まで相違ないように。