為加勢人数差越処、自憲盛大慶之由候、可被心得候、扨亦於倉賀野筋被得勝利由、雖不初儀候、時分柄心地好候、有内者聞届分者、源三・大道寺武主計之由申候、越甲何与哉覧取成ニ付而、氏政悃望動之由申候、兎角ニ堅固之動ニ者有之間敷候、放火見得候者、しば前の後江可出備候、又向甲陣も可及其備候、若信玄押下者、当手も押下、無二見合可決勝負候、敵手敏ニ候程、一戦可急候、身之事者、時刻到来、不及是非候、身之見切成悪、遂一戦失利候へ者、無故味方中迄崩進退候歟、以爰依矯勝負延引候、乍去自坂ひがしの是非候処分別候而、意見肝心候、恐々謹言
潤正月六日
謙信(花押)
岡谷加賀守殿
→甲府市史「上杉輝虎書状」(飯綱考古博物館所蔵文書)
1572(元亀3)年に比定。
加勢として軍勢を派遣したところ、憲盛より喜んでいる旨聞きました。心得ていただけますか。その一方で倉賀野筋で勝利を得られたとのこと。これが初めてではありませんが、状況から考えてとても心地よく思います。内部の人から聞いた分では、北条氏照・大道寺氏の武士クラスばかりだったとのこと。越後と甲斐は緊張が何とはなしに緩和されていましたが、北条氏政が懇望したことで(武田氏が)出撃したそうです。とにかく堅固な攻勢ではないでしょう。放火が見えたところで、戦場に後手の先を突きましょう。また、武田氏もその作戦でいくでしょう。もし信玄が押し下り、こちらも押し下ったら、決戦の無二の好機ですから、敵が機敏なほど、一戦を急ぐでしょう。自分としては、時刻が到来し是非もないことです。しかし見切りは難しい。一戦を遂げて利を失えば、ほどなく味方の諸大名まで進退を崩すでしょうか。このことから、決戦を引き伸ばします。とはいえ、関東の是非と分別については意見が肝心です。
すみません、とんだ早とちりをしてしまいました。
こちらの解釈、流石ですね。以前、「しば」を地名の武蔵国柴に解釈している資料を目にした折、いささか疑問を感じていたのですが、高村さんの「しば」=「仕場」の解釈に合点がいきました。また参考にさせてもらいたいと思います。
「しば」は「仕場」とも「芝」とも書くそうです。私は『古文書・古記録語辞典』を参照しました。辞典類をまめに引くとたまにこういうご利益があるのかも知れません。
それから、確か武田晴信が上田原合戦で「芝を踏む」という行為をしていたようにも記憶しています。
後手の先みたいな解釈はこの場合強引だったかも知れませんが、文書全体の流れを見ると「相手の放火待ち」みたいな感じだったので導入しました。うーん。改めて読むとちょっと強引過ぎるかも。