一、壬寅九月廿五日、諏方信濃守与御一戦之砌、御東者申、其上高名仕候、於在所者、親者伊豆涯分忠信仕候事

一、甲辰冬、諏方地下人在ゝ所ゝニ逆心人数、就中同名山城被官佐渡与由候て、殊外健者候、逆本之儀条、討進上可申由、板垣駿河守被申付候間、くミ討候、此同心者同名出雲、同半左衛門尉ニ候、就御尋者可致言上之事

一、上田原御一戦之砌、蒙手疵奉公仕候事

一、諏方西方衆逆心仕候砌、家内以下取捨、一類引連、上原江相移忠信申候事

一、砥石御帰陣之砌、涯分相挊候、此御証人者長坂筑後守褒美書中給候事

一、葛尾御本意、然処ニ石川其外所ゝ逆心故、八幡峠御人数入之時、涯分返馬相挊候、此証人者馬場美濃守殿具御披露候故、典厩様為使、於苅屋原御陣所ニ三度御褒美条ゝ被仰下様共候事

一、小田井原にて頸壱ツ

一、あミかけ小屋にて頸壱ツ

一、伊久間原にて頸壱ツ

一、塩尻峠にて頸壱ツ

一、葛山おゐて頸四ツ

一、越国西浜板垣為使罷越候時分、敵相揺之間相挊、屓鉄砲疵奉公仕候事

一、小谷城御本意之時分、於構際弓を涯分仕候、板垣具ニ言上故、以高白斎深志之御対面所江召出、無比類相挊之由、御褒美候事

一、時田台軍之時分、板垣弓奉行被申付候間、涯分挊候、此子細弓之衆ニ可有御尋候事

一、三村逆心仕候時分、諏方郡地下人も更不見届為躰候之間、近辺取人質、種々相挊忠信申候、此旨野村具ニ言上、以飯富方御悦喜之趣再三被仰下候、惣別於何趣、乍恐御譜代御旁ゝ御同前奉公之儀存入候、此趣具御披露奉頼候、以上

→甲府市史「千野氏書き出し」(千野家文書)

1557(弘治3)年に比定。千野氏は諏訪郡茅野の在。

一、壬寅年9月25日、諏訪信濃守と一戦の際、東側につき、その上高名を上げました。在所では親類の伊豆がとても忠信をなしました。

一、甲辰年の冬、諏訪の地下人があちこちで逆心の挙兵をした際、とりわけ同姓山城の被官で佐渡という者がいてことのほか強壮でした。「『逆本之儀』であるので討って進上せよ」との板垣駿河守の指示で組み討ちしました。この同心は同姓の出雲、半左衛門尉です。ご質問に答えて言上します。

一、上田原での一戦の際、手傷を受けて奉公しました。

一、諏訪の西方衆が逆心した際、家内以下を取り捨てて、一類を引き連れ、上原へ移った忠信を申し上げます。

一、砥石から帰陣の際、とても働きました。これは長坂筑後守の褒美書で証明されています。

一、葛尾奪取の際に、石川とその他の者がところどころで逆心し、八幡峠に軍勢を入れた時、馬を返してとても働きました。これは馬場美濃守殿が詳しく披露してくれ、典厩様の使者となった際、苅屋原の御陣所で三度ご褒美の言葉を頂戴しましたこともあります

一、小田井原にて首級を1つ。

一、あミかけ小屋にて首級を1つ。

一、伊久間原にて首級を1つ。

一、塩尻峠にて首級を1つ。

一、葛山において首級を4つ。

一、越後国の西浜へ板垣の使者として行った時分、敵が揺さぶりをかけたので働きました。鉄砲疵をこしらえる奉公をしました。

一、小谷城奪取の時分、防御物のそばで弓を射てとても働きました。板垣が詳しく申し上げたので、高白斎が深志で御対面所へ呼んでくれ、比類のない働きだということでご褒美をいただきました。

一、時田台合戦の時分、板垣に弓奉行を申し付けられてとても働きました。この詳細は弓衆にお尋ね下さい。

一、三村が逆心した時分、諏訪郡の地下人も特に見届けていないようでしたので、近辺で人質を取り、色々と働きを見せる忠信をなしました。この旨は野村が詳しく言上し、飯富経由で喜びの趣旨を再三いただきました。これらどの事柄も、恐れながら御譜代の皆様と同じように奉公したと思います。このことを詳しくご披露いただけるようお願いします。以上です。

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