於今度海老ヶ嶋、一戦之最前越切所、尽粉骨走廻由感悦候、自今以後、弥可抽忠義事肝要候、謹言、

五月十三日

氏康(花押)

大藤式部少輔殿

→神奈川県史「北条氏康書状」(大藤文書)

 この度の海老ヶ嶋にて、一戦の最前で切所を取り、粉骨を尽くして奔走したとのこと、感悦しています。今より以後、よいよ忠義にぬきんでることが肝要です。

今度於海老嶋ニ遂一戦候処、大切所ヲ取越無比類動、各ゝ粉骨感入候、此趣氏康へも急度可申届候、恐々謹言、

卯月廿一日

政勝(花押)

大藤式部少輔殿

→神奈川県史「結城政勝書状」(大藤文書)

 この度海老嶋で一戦を遂げ、要所を奪取し比類のない働きでした。各員の粉骨に感じ入りました。この事は氏康へも取り急ぎ伝えておきます。

1556(弘治2)年に比定。

近年大藤寄子衆給銭之方ニ出夫銭、今度御馬廻陣夫無之間、如元来夫丸ニ而可出旨、御印判を被遣候処、自前ゝ夫銭を出由申候歟、永代夫銭にて可出由、御印判有之者、則披可申、為無証據、背御印判之旨儀、為曲事間、人頭を可押立由、被仰出候、急度以現夫可走廻者也、仍状如件、

丑(1565(永禄8)年)

二月十日

幸田與三 奉

坂間郷

 代官

 百姓中

→神奈川県史「北条家朱印状」(西原文書)

 近年大藤の寄子衆に給与分として拠出した夫銭ですが、今度馬廻の陣夫がいなくなったので、元来のように夫丸として差し出すように印判を発行したところ、前々より夫銭を出している旨を申し立てているのでしょうか。永代夫銭による納付ということで印判があるのなら提出して下さい。証拠がないのに今回の印判に逆らうのであれば曲事として「人頭を押し立てるべし」とのことを仰せです。取り急ぎ現在の陣夫を走り回らせるように。

陣夫被下事

壱疋 坂間郷

右、近年為放衆夫、雖大藤同心給被下、陣夫無之由、御侘言申上ニ付而、此度被下候、自当春以現夫可召仕者也、仍如件、

乙丑

二月二日

幸田與三 奉

西原源太殿

→神奈川県史「北条家朱印状」(西原文書)

 陣夫を下される事。坂間郷の1人。右は近年免除した衆夫であり、大藤の同心給として下されたものだとはいえ、陣夫が不足しているためといって陳情があったので、この度下されたものです。この春より現在使っている陣夫をもって召し使って下さい。

陣夫出方

五疋 岡崎

壱疋 臺

壱疋 蓑毛東田原

壱疋 澁澤

三疋 北波田野

壱疋 長善

壱疋 丸嶋

弐疋 落合

壱疋 大屋

壱疋 大嶋

五疋 坂間

壱疋 平間

壱疋 大神

壱疋 平沢

伊豆

壱疋 松本

壱疋 廻夫

以上卅三疋

此外自分

三疋 入野

合卅六疋

右、陣夫不出由申上候、於陣夫不可赦免候、但乱後間、代官・領主・百姓相談、致弁済置様可致之旨、被仰出候、仍如件、

酉 十一月廿二日

宮川弥三郎 奉

大藤式部丞殿

同寄子衆中

→神奈川県史 資料編3「北条家朱印状」

 (計数表記は省略。但し33疋とあるのは誤りで27疋が正しい)
 右の陣夫を出さないことを申し上げています。陣夫については赦免できません。但し戦争終結間もないので、代官・領主・百姓が相談し、弁済しておくようにする旨、仰せになりました。

一昨日廿二日仕合被申越、誠今度走廻、不被残候、父之名をも再興浦山敷候、両太守へも、度ゝ奇特之由申候、御本意之上、一簾可被引立之旨御内性候、弥寄子衆へも被為申聞、分骨肝要候、今川殿近日可有出馬候、武田殿者吉田迄出陣、一万余人数之由候、五日之内河村へ可出馬之旨被申越候、於本意無疑候、当城之事者、備堅固候、鉄炮五百丁籠候間、堀端へも不可寄付候、猶吉左右可承候、恐々謹言、
廿四日
宗哲(花押)
大藤式部丞殿

→戦国遺文 後北条氏編687「北条宗哲書状」

 一昨日22日に合戦したことお伝えいただきました。本当に今度は残らず奔走されました。父上の名を再興され羨ましく思います。両太守(氏康・氏政)へも度々目覚しい働きだと申し上げております。本意に思っておられ、とりわけ引き立てることを内々に仰せです。寄子衆にもこのことを申し聞かせ、粉骨することが肝要です。今川殿は近日出馬されるでしょう。武田殿は吉田まで出陣、1万余りの軍勢だと聞いています。5日のうちに河村へ着陣するとのご連絡がありました。本意は疑いありません。当城のことは、堅固に守っています。鉄砲500丁で籠もっているので、堀端にも寄せ付けていません。さらに吉報を承れることと思います。

註進状披見候、仍ぬた山へ備を上、敵働候処、致合戦、六人討捕、頸之註文到来、心地好候、打続如此走廻候事、忠節各無比類候、此度感状可遣候へ共、手前取乱間、爰元相静上、可褒美候、此趣各へ可申断候、此度候間、聊無ゝ沙汰、於走廻者、当城本意之上、何をも可引立候処、毛頭不可有偽候、将又敵陣へ目付遣様躰可申越候、謹言、
三月廿四日
氏政(花押)
大藤式部丞殿
追而、薬三種遣之候、敵川を越候者、早ゝ当口へ可移候、

→小田原市史 資料編477「北条氏政書状」

 戦果報告書を拝見しました。ぬた山へ陣を上げ、敵が出動したところを合戦し6人を討ち取りました。頸註文が来て、心地よく思います。連続して奔走しての忠節はそれぞれ比類のないことです。この度感状を出そうと思いましたが、身の回りが取り乱した状態なので、落ち着き次第、褒美を与えます。感状を停めていることはそれぞれにお断りしていることです。このような状況ですから、少しもたゆむことなく奔走することは、後北条氏の本意です。どのような者でも功績があれば引き立てるという約束は、毛頭偽りのあるものではありません。また敵陣へ偵察を送って様子を報告して下さい。
 追伸:薬3種を送ります。敵が川を越えたので速やかに当口へ移動して下さい。

一昨日廿二、於曽我山敵数多討捕候、数度之高名無比類候、敵之物先ニ随而水之尾へ早ゝ可来候、猶口上ニ申候、謹言、
三月廿四日
氏康(花押)
大藤式部丞殿

→小田原市史 資料編478「北条氏康書状」

 一昨日の22日、曽我山において敵を多数討ち取りました。度々の高名は比類がありません。敵の『物先』に従って速やかに水之尾へ来て下さい。さらに口頭で申します。

於今日大槻合戦、則敵六人討捕候、尤心知好候、此間及度ゝ忠節、無比類候、向後弥可走廻者也、仍如件、
永禄四年
三月十四日
(氏政花押)
大藤式部丞殿

→小田原市史 資料編473「北条氏政感状」

 今日の大槻合戦で敵6人を討ち取りました。とても心地よく思います。今回度々忠節に及んだことは比類がありません。今度もますます奔走して下さい。

長ゝ籠城辛労候、此表皆ゝ同心之者共、可申聞候、仍坂匂陳取之敵退散之間、様躰追而可申越候、猶随波斎可被申候、恐々謹言、
閏三月四日
 氏真(花押)
小倉内蔵介殿
「[後筆]河越城ニ籠ル節也」

→戦国遺文 今川氏編1666「今川氏真書状写」

 長々と籠城してご苦労されました。現場にいる同心の者たちにも聞かせて下さい。坂匂(酒匂)に陣取った敵が退却しました。その様子は追ってご連絡します。さらに随波斎が申し上げます。