沓掛・高大根・部田村之事

右、去六月福外在城以来、別令馳走之間、令還付之畢、前々売地等之事、今度一変之上者、只今不及其沙汰、可令所務之、并近藤右京亮相拘名職、自然彼者雖属味方、為本地之条、令散田一円可収務之、横根・大脇之事、是又数年令知行之上者、領掌不可有相違、弥可抽奉公者也、仍如件

天文十九

十二月朔日

治部大輔(花押)

丹羽隼人佐殿

→豊明市史「今川義元判物」(手鑑)

 沓掛・高大根・部田村のことは、去る6月に福谷城に駐屯して以来特別に奔走してくれているので返還することとする。その以前に売った土地などのことは、今回情勢が一変した上は、現在はその沙汰(売買事実)は存在しない。これらの土地を所務するように。同時に、近藤右京亮が保持している名職は、なりゆきであの者が味方になったとしても、本地となっている以上は、散田(寄進先のない土地)一円を所務するように。横根と大脇のこと。これもまた数年知行していたものだから、領知は相違なく行なうように。いよいよ奉公に励むこと。

神山陣伝馬之事、自苅屋・笠寺陣之時相定之処、去々年以来依令難渋、伝馬■相拘之者共可勤之旨、両度遣印判処、■及兎角条甚以曲事也、急度伝馬銭相調、台所野中源左衛門爾可相渡、其上当府其外近辺伝馬者、駄賃入者共可勤之、但有可申子細者、三日中に可参府、就■儀者為名主間、武藤伝馬屋敷拘之者一人、脇之者一人、可罷上来、二日以前不致参府、猶伝馬銭於不出者、此儀及横合者、一両人可成敗之状如件、

七月廿■日

神山 宿中

伝馬屋敷者

→静岡県史「葛山氏元朱印状」(武藤文書)

神山陣伝馬のこと。刈谷・笠寺の陣より決められていたが、一昨年より困ったことになっている。伝馬(役?)を勤めるよう申し付け、2度とも証書で正式に通達したが、従っていないのはとても遺憾なことだ。取り急ぎ伝馬銭を用意して会計役の野中源左衛門に渡すように。その上で当府とその近辺の伝馬は、運賃を受け取った者は勤めるべきものである。ただし事情がある者は3日前に当府に参上すること。このことは名主となっているのだから、武藤伝馬屋敷の1人、脇の者1人も罷り上るように。2日以前に参上もせず、さらに伝馬銭を提出しない者、異義を唱える者は、どちらも成敗するだろう。

去晦之状令披見候、廿八日之夜、織弾人数令夜込候処ニ早々被追払、首少々討取候由、神妙候、猶々堅固ニ可被相守也、謹言

永禄元年

三月三日

義元(花押)

  浅井小四郎殿

  飯尾豊前守殿

  三浦左馬助殿

  葛山播磨守殿

    笠寺城中

→豊明市史「今川義元書状」(長野県真田宝物館)

 先月末日の書状を拝見しました。28日夜に織田弾正忠が夜襲を仕掛けてきたところを早々に撃退し、少しの首級を挙げたとのこと。素晴らしいことです。さらに堅固に守備をお願いします。

先度於舟渡橋、岩小屋江後詰之人数多之討捕、御粉骨之至、無比類御感状被遣候、源二郎殿、両度抽御馳走、御感悦異于他被思召候、然間、御腰物正恒、被進候、御面目之至候、将又九八郎殿儀、御親類中人質於牛久保ニ被置、以身血重諸余不可有疎略候段、各御申候条、無御存知分ニ三戸大宮寺辺ニ、為山林可有御堪忍ニ候、是又御心安存候、委細御同名兵庫助殿へ申条、不能詳候、恐々謹言、

壬六月八日

 朝下 親孝 判

 長源 以長 判

 由江 光綱 判

奥監 御宿所

→静岡県史「今川家奉行人連署書状写」

 先の舟渡橋において、岩小屋へ援軍で入った軍勢を多数討ち取りました。粉骨の至り、比類もないことで御感状をお送りすることとなりました。源二郎殿は2度も活躍し、特に御感悦は格別です。太刀『正恒』が下賜されます。名誉の至りです。そしてまた九八郎殿のことですが、親類から人質を牛久保に置き、血の絆を以って仕えてくれているので、疎略に扱うことはないでしょう。それぞれの言い分を聞き、申告がなかった大宮寺付近の2~3戸は、山林として許容されるでしょう。これもまたご安心下さい。詳しくは奥平兵庫助殿へお伝えしていますので、ここでは記述しません。

閏6月は1558(永禄元)年。

参州細谷代官并給分五拾貫文之事

右、先年依吉田令内通忠節被出置、任先判形両通之旨領掌了、次代官徳分代方六貫八百文・米方四斗、同陣夫壱人之事、是又如年来可令所務候、縦彼地為知行自余江雖出置之、右之給恩五拾貫文并代官徳分米銭・陣夫等之事者、以田地割分之可令扶助也、殊今度岡崎逆心之刻、出人質捨在所無二為忠節之条、永不可有相違者、守此旨弥可存忠功者也、仍如件、

永禄四 辛酉年

九月廿一日

氏真(花押)

野々山四郎右衛門尉殿

→愛知県史 資料編11「今川氏真判物」(野々山千萬氏所蔵文書)

 三河国細谷代官職とその給料50貫文のこと。右は、先年吉田より内通させた忠節によって出し置かれるもので、先に出された判形2通のとおりに掌握しているものである。次いで代官の所得分として、金銭納6貫800文と米納4斗、陣夫1人があるが、これもまた年来の通り所務させるように。たとえあの土地が他へ知行地として出し置かれることとなっても、右の給恩50貫文と代官所得の米と銭・陣夫などのことは、田地の割分をもってこれを扶助する。ことにこの度岡崎が反逆した際には、出していた人質を捨てて在所で無二の忠節を行なってくれたので、永く相違のないよう保証する。この旨を守りいよいよ忠功を立てるように。

今度三州雑説之刻、牛久保城米無之処、両人五百俵令取替之段忠節也、返弁之儀者、当秋中遠州之内菅沼新八郎知行河井之年貢米之内、本利可引取之、利息之儀者、世上次一割輒可奉公之旨申之条、所任其儀也、仍如件、

永禄四 辛酉

四月廿一日

牧野八大夫殿

岩瀬雅楽助殿

→愛知県史 資料編11「今川氏真朱印状」(菅沼家文書)

 この度三河国が不穏な情勢になった際、牛久保城で米がなかった状態だったのを、両人が500俵立て替える忠節を見せてくれた。返済に関しては、この秋遠江国のうち菅沼新八郎が知行する河井の年貢米から元本・利息を当てる。利息については、一般的な1割とするので奉公するように。

去十一日於参州牛久保一戦、父兵庫助討死之由、不便之至、忠節無比類候、弥可抽戦功者也、仍如件、

永禄四

四月十四日

氏真

真木清十郎殿

同  小大夫殿

→愛知県史 資料編11「今川氏真感状写」(槙文書)

 十一日、三河国牛久保での合戦で、父親の兵庫助が討ち死にしたことを聞きました。お悔やみ申し上げます。忠節は比類がありません。いよいよ戦功に抜きん出るようお願いします。

如尊意、其以来久不能面拝候処、貴札本望存候、仍御茶如御書中到来、殊一段勝申候条、一入賞翫申候、今度岡崎雑説出来候処、無別儀無事候間、可為御大慶候、何様来秋必可令参陣候条、以面上可令申候、此由可得御意候、恐惶謹言、

潤六月廿日

泰朝(花押)

大樹寺

参尊報

→静岡県史「朝比奈泰朝書状」

 一別以来ご無沙汰しております。お手紙を頂戴できて本望です。この中に書かれたようにお茶を下さいました。特に優れたお茶です。大事に味わっております。この度岡崎に不穏な動向がありましたが、別段何事もなく推移し、めでたいことです。いずれにせよ来る秋には必ず行軍に加わります。直接申し上げるべきところですが、こういった事情ゆえにご納得いただけるでしょう。

閏6月は1558(永禄元)年。

高野山宝幢院次寮先祖雖為宿坊、及廿ヶ年無御音信候間、然者寺家之儀依無案内、蓮花院峯之寮申請候而、一札進置候、就其双方相論候間、則卅六道場江以書状尋申候処ニ、山之儀従往古旧証跡次第之理運ニ定之条、次寮可為宿坊之由、御返事相意得申候、此上ハ末代不可有相違候、仍後日如件

永禄七年甲子菊秋日

水野藤四郎

 元茂(花押)

水野前下野守

 信元(花押)

奥谷

次寮参[其後大通院ト号、又後常慶院ト改ム]

[此時緒川元茂取次清水左京亮]

[苅屋信元取次斎藤助十郎信家]

→新編東浦町誌「高野山常慶院有之消息写」

[ ]は後世の筆と思われる。

 高野山宝幢院の次寮は先祖が宿舎としていたのですが、20年にわたり音信がなかったので、寺のことは無案内でした。蓮花院の峯之寮が申請したので裁可しましたが、双方が争論となり、36の道場へそれぞれ書状で尋ねたところ「高野山のことは昔からの取り決めに任せて定めることで、次寮を宿舎すべきである」と返答を得ました。この上は末代まで相違ないようにし、後日のために取り決めます。

 大高城への補給が各月の19日に行なわれている点は検証a07で述べた。では、大高城はどのような状況にあったのか。鵜殿十郎三郎宛書状では、この時合戦があり負傷者が出ていることが判る。大高城付近では白兵戦も含めた交戦が行なわれていた。また、菅沼久助宛書状では戦闘が行なわれたのと同時に、兵糧のほか「人数」すなわち兵員も補充されていることが判る。膠着状態にある籠城であれば兵糧だけの搬入で済む筈だ。というよりも、兵員を増強すればそれだけ兵糧も必要になる訳で、単に飢餓状態にあるのではない。補充しなければならない程、兵員の損傷が激しかったと思われる。
 今川方が圧倒的に優勢で、以降大規模な作戦を演じるために兵員と兵糧を補充したとは考えにくい。戦闘がいずれも大高城周辺で行なわれていることから考えても、城内に補給を行なうのが精一杯だっただろう。
 では何故それが鳴海・沓掛ではなかったのか。鳴海のほうが最前線に存在し、現地形から考えても大高ほど規模は大きくないと思われる。また、沓掛は比高も低く防御レベルは高くない。西にある二村山を押さえれば城内は丸見えとなる。城の東を境川が流れているが、これは西からの侵攻を妨げるものではない。
 だが、5月19日合戦の焦点となった鳴海・大高・沓掛の中で、織田方にとって最も攻めやすかったのが大高だった、としか説明のしようがない。大高を失陥させれば鳴海・沓掛も自動的に開城に追い込めるのであれば、犠牲を承知で戦略的に大高を攻めたと仮定できるが、大高・沓掛が開城しても鳴海が保持できることは岡部五郎兵衛尉の実績で後に証明されている。また、沓掛を攻撃していないことから考えて、二村山は今川方が確保していたものと推測できる。やはり、攻めやすく守りにくい条件が大高には存在したのだろう。
 大高城は北と東に大高川、西に伊勢湾を配している。防御が甘くなるのは南からの攻撃に対してである。ということは、知多半島側からの攻撃を受けていたことになる。熱田から海上を移動し、大高南方に上陸すればこの作戦は可能だ。ただし海路の確保が不可欠となる。
 織田方が海路の安全を握っていたとすると、検証07での推論は逆転する。今川方は、大潮ではなく、干潮時に補給を行なおうとしていたことになる。いずれにせよ19日は潮の干満が激しい日である。熱田からの援軍が来づらい日時を狙い、大高南方に布陣する敵を攻撃しながら陸路大高に補給を行なった可能性が出てくるだろう。