北条氏政、小畑太郎左衛門が生野山合戦で活躍したことを賞す
昨廿七日、於武州松山、越国衆追崩、敵一人打捕、忠節候、向後弥至ゝ走廻者、急度可及恩賞者也、仍如件、 永禄二年 十一月廿八日 氏政 判 小畑太郎左衛門殿 →神奈川県史 資料編3「北条氏政感状案写」(古文書二) 1561(永 …
昨廿七日、於武州松山、越国衆追崩、敵一人打捕、忠節候、向後弥至ゝ走廻者、急度可及恩賞者也、仍如件、 永禄二年 十一月廿八日 氏政 判 小畑太郎左衛門殿 →神奈川県史 資料編3「北条氏政感状案写」(古文書二) 1561(永 …
昨日廿七越国衆生山へ上備ニ付而、進旗処ニ、敵敗北、打押付、利根川端迄追詰、尽粉骨被走廻由候、戦功無比類候、弥忠節肝要候、仍如件、 永禄[二二]年 十一月廿一日 氏政 在判 太田豊後守殿 →神奈川県史 資料編3「北条氏政感 …
昨日廿七、於武州生山、越国衆追崩、蒙疵候、忠節候、向後弥至于走廻者、急度可及恩賞者也、仍如件、 永禄四年 十一月廿八日 良知弥三郎殿 →神奈川県史 資料編3「北条氏政感状写」(安得虎子十) 昨日27日、武蔵国生野山にお …
昨日廿七、於武州生山、越国衆追崩、数ヶ所蒙疵、本江討捕之、高名尤感悦候、向後弥至于走廻者、急度可及恩賞者也、仍如件、 永禄[二二]年 十一月廿八日 (北条氏政花押) 小野藤八郎殿 →神奈川県史 資料編3「北条氏政感状写」 …
尚以、被対公儀可有御忠節之由、被相定候上者、私之意趣不入事候、其方次第警固船等之儀可申付候、先度被相越候使者、此方へ可給候、内証之儀可申入候、以上、 其方御覚悟、此比相違之儀、御同彦次郎被申越付而承届候、内証之趣、国分 …
尚々御朱印ハ四国きりとりの御朱印ニ候、おもてむきハ、三吉養子ニなり候分ニ候、八月ハ寺にも為見舞、可被越分にて候、相のこる我等ハ当寺古仏と一所に相はて可申内性候、くわしく申候へく候へとも、いそき候まゝあわれ存命之中ニ申承度 …
就近般信長恣儀相積、不慮城都取退候、然此節甲州令一味、天下静謐馳走頼入候、為其差越一色中務大輔、猶藤長可申越候也、 三月廿日 (義昭花押) 水野下野守とのへ →証言 本能寺の変「足利義昭御内書」(古証文) 近頃、信長が …
正月廿五日之芳墨今月五日到着、仍荒木摂津守信長敵対、貴国一味以来至摂・泉両州諸卒被立懸、輝元二月五日出張、海陸之行無御由断之由肝要候、然者当方尾・濃口手合事、度々如申達候、聊不可有用捨候、幸西国平均、彼表無異儀之上者、太 …
一、畠山相果被申後者、信長殿へ付申、則高野御改被成、其儀ニも弐拾五人之者先手を仕候へと、長谷川お竹・ふくすみ之両人御承ニ而御諸参候、信長殿之人数者松山新助、ゑほしかた衆、則生地表之持口、隅田弐拾五人者東家表之持口、大津口 …
猶ゝ、越年之義不成事候、各有談合、一途輝虎相心得任入候、鳥目召仕之者共ニ出候へとも、令侘言、及暇令闕落候、爰元可察候、 雖未相届申越候、爰元越年之事、不調不尋常候、如何も自要害合力、参千疋被越候へとも、世間只今之義相替候 …