コンテンツにスキップ

今川方の佐竹氏について

 今川家中に佐竹氏がいたので、ちょっとまとめてみた。初出は、今川義元が戦死する直前。掛川にある朝比奈備中守家の菩提寺常安寺のこと。

1560(永禄3)年5月2日
朝比奈泰朝は、佐竹丹波入道宛に、丹波入道の塔頭昌吉斎を乗安寺の末寺とし、その寺領として田地3段を寄進すること、昌吉斎が乗安寺と離別の際は土地を返却することを伝える。<戦今1510>
※以下、「戦今」は「戦国遺文今川氏編」を指す。

 ここで佐竹丹波入道は、昌吉斎を常安寺の塔頭としてそこに寄進している。ここから、朝比奈泰朝に仕えていたことが判る。

 次に登場するのはその翌年。今度は駿河の蒲原城に関連して出てくる。

1561(永禄4)年9月3日
今川氏真は、佐竹雅楽助宛に、佐竹又七郎が困窮して90貫文で売却した知行・跡職の買取を認める。また、被官や蒲原城の根小屋・堀・築地の修繕費用、段銭も扶助するとする。これを受けて又七郎の娘の縁談を進めるよう指示し、相違があれば買い返すよう伝える。「又七郎の合力である伝十郎に拠出した土地は、高貞(雅楽助か?)が買い取ったので無沙汰があれば召し放て。又七郎が十年間に方々で借金してまで無足の奉公を勤めたのは忠節だから、検地で増分があっても報告してそのまま収入とするように」と付け足す。<戦今1739>

 蒲原城といえば、永禄11年に武田晴信が襲撃した際に氏真が出陣しあっという間に崩壊したことで有名だが、ここの城番は相当にきつい業務だったらしい。

1551(天文20)年8月28日
今川義元は、由比左衛門宛に、蒲原在城の見返りに70貫文の負債を取り消す。<戦今1034>

 要衝の地だから、物入りでもあったのだろう。由比左衛門も佐竹又七郎も困窮に追い込まれている。ただ、200~300貫文の扶助が出た三河の城番と比べると小規模に思える。

 又七郎とちょっと関わりがあるかも知れないので、以下も挙げておく。

1539(天文8)年7月10日
今川義元は、小嶋又八郎宛に、去る8日に蒲原城防衛で活躍したことを賞し、江尻五日市のうち『よしそへ』という田地を与える。<戦今629・631>

 その他蒲原城について調べてみたが、永禄4年に佐竹雅楽助に預けられて以降史料がないので、氏真没落の時の城番が誰だったかは判らない。ただ、それを示唆する文書がある。

1569(永禄12)年4月18日
武田晴信は、万沢遠江守宛に、由比今宿60貫文(朝比奈備中守分)と若宮40貫文(佐竹分)を与える。但し若宮のうち5貫文は蒲原本免ということで差し引いている。<戦今2349>

 ここでいう「若宮」は蒲原に現在も残る和歌宮神社だろう。恐らくここが「蒲原根小屋」だったと思われる。佐竹雅楽助は今川方のまま没落したのだろう。また、朝比奈泰朝所領の由比今宿とセットになっている点から考えて、丹波入道と同じく、朝比奈備中守家の被官だったという可能性も高い。色々替わった蒲原城番だが、途中で朝比奈千代増が担当している時期もある。

 この佐竹氏のその後の消息は判らない。氏真と共に後北条家に行ったのか、後に旗本として残る朝比奈泰勝の家中に留まったのか、または断絶したのか。そもそもどこから来たかも不明なままだ。美濃にいた幕府奉公衆の佐竹氏が流れ着いた可能性もあるものの、今は未詳としか言えない。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です