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武田信虎に関する素朴な疑問 なぜ追放されたか?

今川義元が珍しく感情を顕わにした書状を踏み込んで解釈したが、武田信虎の追放というのは個人的にずっと疑問だった。

よく目にした通説が「信虎の好戦的で酷薄な性格を嫌った国衆たちが、晴信を擁立した。度重なる戦争で疲弊した国衆と百姓も大歓迎だった。また、信虎は晴信を嫌って次男の信繁に跡目を継がせようとしたため、晴信も追放に踏み切らざるを得なかった」というものだ。

それぞれが首を傾げる内容に思えてならず、目にする度に気になっていた。かなり大雑把ではあるが、反証を挙げてみる。

1)好戦的だったのか。

14歳で混乱する武田家を継いで以来、信虎は絶えず内戦の渦中にあった。「好戦的」というのが『必ずしも武力を用いなくて済む局面でも武力制圧をまず行なう』という意味合いだとするなら、それは当てはまらない。むしろ、国外勢力と結託した国衆や一門から常に紛争を仕掛けられている合戦の方が多い。

2)酷薄だったのか。

些細なことで家臣を殺したとか妊婦の腹を裂いたという逸話も見かけた記憶があるが、それらはクーデタで失脚した支配者につきものの類話なのでここでは対象にしない。

唯一強引さを表わす証拠があるとすると、『戦国のコミュニケーション』(山田邦明・著)で紹介されているものだ。

長尾為景から北条氏綱に送られた2羽の鷹のうち1羽を信虎が差し押さえたことがある。この時信虎は「為景に遺恨がある」と氏綱に言いつつ、結局その1羽を氏綱に返している。これを氏綱は「もう1羽の若い方をよこせ」という意趣だと理解して、その通りに若い方を渡している。一見信虎の強引な性格を現わしているように見えるが、周辺の事情を考えると信虎の強がりとも解釈できる。

これは1524(大永4)年の頃の話で、信虎と氏綱は翌年に和睦(氏綱が礼銭を支払っている)しているが、まだこの頃は交戦状態にある。にも関わらず、氏綱も為景も、使者を武蔵・上野経由で送るより甲斐・信濃経由の方が安全(つまり、ゆるい)と思っていたということだ。また、信虎は救世主を自負して関東まで遠征していたのかも知れないが、両上杉・後北条ともに信虎のことは話題にしていない。どうも信虎の独り相撲な感じである。山内・扇谷・後北条からすると、上手に使いたくはあるが決定力はない存在といったところか。為景への対応と比較してみると面白い。

3)続く戦乱に疲れた民衆が喜んだのか。

ここが最も引っかかっている。追放直前の信虎は、今川・諏訪・村上の各氏と同盟を結んでおり、明確に敵対していたのは後北条のみである。また、連続していたのは甲斐の内戦であって、叛乱と鎮圧の連鎖がようやく終息したと同時に追放されているのだ。その後晴信が領土拡大に生涯駆り立てられている姿を見ると、むしろ民衆は戦乱を望んでいたとしか思えない。

参考:信虎追放関係の史料

この史料を見ると、信虎がいかに嫌われていたかが判る。が、戦乱を嫌ったとは明言されていない。

 

4)次男を後継者にしたかったのか。

これはむしろ、信虎の前代の話だ。信昌は長男信縄に家督を譲りながら、後に信縄を攻撃しており、その際に次男信恵を押し立てている。この辺りと混ざってしまっているように思う。もし事実だとするなら、晴信政権は信虎とともに信繁も駿河に放逐している筈だ。信繁が晴信から重用されている点から考えれば、確執はなかったと考えるほうが自然だろう。

 

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