武田氏に関しては知識がないため、同時代史料ではなく、予めまとめられた書籍を用いた(『武田穴山氏』・『戦国のコミュニケーション』・『戦国大名の日常生活』・『武田信玄と勝頼』・『武田信玄(ミネルヴァ)』)。推測の部分が溶け込んで判りづらいので、明確な私見は下線を入れた。

まず、信虎は少年期に家督を継いで内戦に巻き込まれている。嫡流とはいえ、乱れに乱れた状況で、一歩間違えれば他の守護大名と同様に傀儡になって家を乗っ取られただろう。土岐・斯波・細川・越後上杉・岩松新田の各氏はこれで没落していった。

信虎は祖父と父が家督を巡って抗争する最中の1494(明応3)年に生まれ、2人が相次いで死んだあとに13歳で当主となる。直後、祖父信昌が目をかけていた叔父信恵に攻められる。ここで敗れていたら、家督は叔父が奪っただろう。世代交代に期待する流れもあったのか、信恵を討って最初の難関は突破する。

その後も、今川と後北条連合に苦戦しながら甲斐の国衆と穴山・小山田を下す。諏訪氏と結んだ大井氏の内乱を制して1532(天文元)年ついに甲斐を統一。しかし、この最後の最後に至っても近臣の飯富虎昌に叛かれるという危うさであった。

信恵討伐から一貫して信虎を支えてきた虎昌は真の意味で股肱の臣であった。彼が見切りをつけたのは、1528(享禄元)年に諏訪攻めをして失敗したのが遠因だろう。反撃してきた諏訪氏に、まず外様の大井氏が同調し、虎昌が合流している。外征がかえって内戦を引き込むという皮肉な結果となった。それ以前の1524(大永4)年武蔵遠征後も北条氏綱の逆襲を受けているのも、同じ要素だ。穴山氏の動静も今川氏輝の意向に影響されており、余断を許さない状況は続いていた。

好転の兆しとなったのは1536(天文5)年の花蔵の乱だ。今川義元が登場すると同盟関係となり、同9年には諏訪とも同盟する。そして村上義清との3氏連合で佐久を攻め海野氏を上野国に逐う。

その援軍として即座に西進してくるだろう山内憲政は厄介だが、氏綱との抗争があるので長陣は張れないし、諏訪と村上が当面の盾にはなる。そうなると義元からずっと催促されていた駿河国河東の奪還作戦が焦点となる(義元が河東地域を後北条氏に奪われたのは、信虎との同盟が原因であるため)。信虎が駿府ヘ行ったのは、この準備のためだろう。河東が今川方になれば、氏綱は失速して関東の状勢は混沌としてくる。

ここでの信虎の立ち回りが巧みなのは、今川を後北条への盾に、村上と諏訪を山内への防波堤にしている点だ。紛争が長期化しても、国内の生産はダメージを受けない。ここで稼いだ貴重な時間は、内戦続きで手付かずだった国内統治の整備に回す積もりだったか。13歳で家督を継いで以来、ようやく国外に戦線を移せたのだ。

しかし、信虎は失脚した。恐らく佐久割譲で武田の分が少なく、これから戦う河東も今川領回復でしかなく、同盟ばかりで活躍の場がないと考えた一派に追放されたのだろう。彼は国内安定をやり遂げたために放逐されたと見てよい。

追放後の7月、予想通り憲政方の軍は佐久郡に入る。盟主を欠いた3氏連合は機能せず、諏訪氏は単独で降伏する。駿府でこの報を知っただろう信虎はどう思ったのか……。

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