(今川氏真花押)

今度菅沼小法師赦免之儀、馳走神妙也、然者設楽三郎以知行之内百五拾貫文加扶助畢、守此旨、弥家中之者共加異見可抽忠節之状如件、

永禄五 壬戌

正月十四日

菅沼次大夫殿

→静岡県史資料編7 「今川氏真判物写」(集古文書所収菅沼正義文書)

 今度菅沼小法師を赦免した件で、奔走したのは神妙である。設楽三郎の知行から150貫文を扶助する。この旨を守り、家中の者たちに意見をしていよいよ忠節にぬきんでるように。
 

一今度赦免之上、近年父大膳亮令所務本地、悉令還附事

一為新知行設楽三郎以本領之内弐貫文令扶助事

一家中之者、近年於蔵前借儀雖為無沙汰、赦免之上者、自余之借儀寺方共不可及其沙汰、但当乱令味方者共手前之儀者、以本分可返弁事

一親類被官百姓寺社方共、為私雖企訴訟、一切不可及許容事

一平居城之事、至来年者可令破却事

右条々、永不可有相違、守此旨弥可抽忠節者也、仍如件、

永禄五 壬戌 年

正月十四日

氏真 判

菅沼小法師殿

→静岡県史資料編7 「今川氏真判物写」(奥平松平家古文書写)

 一、今度は赦免とするので、近年父の大膳亮が治めていた領地を全て還付すること。
 一、本領のうち2貫文をもって設楽三郎の新知行として扶助すること。
 一、家中の者が近年蔵から前借していた分は沙汰止みとなっていたが、赦免となったので自他の借金額のことは寺方ともども沙汰に及んではならない。但しこの反乱で味方した者たちの手元は元本を返済すること。
 一、親類・被官・百姓・寺社全てにわたり、勝手に訴訟を企てることは一切認めないこと。
 一、平居城のことだが、来年までには破壊しておくこと。
右の条項は末永く相違ない。この旨を守ってますます忠節にぬきんでるように。

乍恐申上候意趣者、於致実全不企謀叛、去頃三州発向之砌、致実有食送状者歟、徳川殿一味之由致讒言、依之可被誅相極之間、為遁其災難、称病気逃帰于本国畢、次白須賀之訳放火之事、全非致実所為、彼宿民手之過言也、然依時節悪敷、致実之所為之由蒙御疑事、可謂豊前守之不祥、其与徳川殿一味之事、所誰人之申更不可有其証、若致実於逆心必定者、自氏真卿三州御帰陣之砌、塞海道之通路楯籠于此城、可致合戦之処不及其術、如斯以道理虚実可有御糾明歟、聊不存叛逆之旨、献起請文上者、被分聞召預御厚免者、尤叶本望可抽忠節、若又於無御承引ハ不及力、掛命于此城討死可仕、以此趣宜可預洩達也、恐惶謹言、

三月晦日

飯尾豊前守致実 判

朝比奈備中守殿

瀬名陸奥守殿

同 中務大輔殿

朝比奈兵太夫殿

→静岡県史 資料編8 中世四 付録1 「飯尾致実書状写」(古簡編年三)

 恐れながら申し上げる意趣は、致実は全く謀叛を企てていないということです。以前三河国に出陣した際、致実の送り状を上程した者がいたのでしょうか、徳川殿と結託したという讒言があったそうです。これによる処罰を恐れたので、病気と称して本国に帰っていました。次に白須賀での放火ですが、致実が関与するところでは全くなく、あの宿の者たちの虚言です。時節が悪く致実のせいであるとの疑いを蒙ってしまいました。私豊前守の不徳の致すところでしょうか、私と徳川殿との結託のことは誰が言ったことなのか、証拠はないでしょう。もし致実の逆心が決定的ならば、氏真卿が三河から帰陣する際に海道を塞いでこの城に籠城すればよいことです。そのような合戦には及びませんでした。このような道理で虚実を糾明すべきではありませんか。叛逆の意図は少しも持っていないと起請文を差し上げます。お聞き届けいただけるならば、本望に思い忠節に励みます。もしお聞き届けないならば、及ばずながら命をかけこの城で討ち死にしようと思っています。この趣旨をもって宜しくご報告を行なって下さい。

就 太神宮正遷宮、遠州萱米之事承之間、十付進之候、仍一万度御祓太麻并三種到来珍重候、弥於 御神前、可被抽武運長久之懇丹肝要候、猶三浦右衛門大夫可申候、恐々謹言、

四月十一日

氏真 御判

二神主殿

→静岡県史 「今川氏真書状写」(神宮関係古文書写集)

 太神宮正遷宮について、遠江国に課せられた萱米は了承しましたので進呈します。一万度のお祓い大麻と三種が到来したのは珍しく貴重なことです。ご神前においていよいよの武運長久を祈祷することが肝要です。さらに三浦右衛門大夫が申し上げます。

就今度進発、為立願於重原料之内百貫文、為新寄進永令奉納也、但料地事■■■改之可申付、以此旨可抽武運長久之懇祈之状如件、

天文十九年九月廿七日

治部大輔(花押)

亀田大夫殿

→静岡県史 「今川義元判物写」(勢州御師亀田文書)

 この度の進発について、願掛けとして重原の領地のうち100貫文を、新規の寄進として末永く奉納する。但し領地のことは(奏者が?)改めて申し付けるだろう。このことにより、武運長久の祈祷にますますぬきんでるように。

近日者不令申候、所存外候、其表相替子細無之候哉、時宜承度候、召遣候者、委曲申含進之候、直可被聞召候、猶重而可申入之間、閣筆候、恐々謹言、

四月十九日

高政(花押)

織田武蔵守殿

 御宿所

→岐阜県史「斎藤高政書状」(徳川黎明会所蔵文書)

 近頃はご連絡もしていませんでしたが、思いもよらぬことでした。その方面の事情で変化があるでしょうか。時宜を承りたく思います。派遣した者に詳細を申し含めておりますので、すぐにお訊ねいただけます。さらに重ねて申し入れることもありますので、筆を置きます。

追而、五明被送下候、令拝領候、

貴札拝読、令得其意候、両寺之事、晴信為申聞候処、如被申者、当秋信国之残賊退治、速就達本意者、不可存異儀旨候、乍恐御分別肝要奉存候趣、可得尊意候、恐惶敬白、

閏六月十九日

昌景(花押)

進上 理性院

貴報

→戦国遺文 武田氏編1 「飯富昌景副状」(飯田市・文永寺文書)

お手紙拝読して、意図を把握しました。両寺のことを晴信に申し聞かせたところ、この秋に信濃国に残った敵を退治し、速やかに本意を達成できたらなら異存はないとのことでした。恐れながらご分別が大切だと思われます。ご理解いただけますよう。
追伸:五明をお送りいただき、拝領しました。

閏6月は1558(永禄元)年。

就今度遠山進退之儀、長坂迄承旨候間令赦免候、自今以後以時節、彼人就企逆心者、駿・甲事別而申談候上者、其方其擬頼入候、委細者可有彼口上候条、不能詳候、恐々謹言、

追而馬一疋鹿毛進之候、

九月六日

晴信

天野安芸守殿

→戦国遺文 今川氏編1177「武田晴信書状写」(国立公文書館所蔵文書纂所収天野文書)

1554(天文23)年に比定。

今度の遠山氏進退について、長坂まで承る旨があったので赦免します。今以降の時節、あの人が逆心を企てたら、駿河国・甲斐国の間で特別に相談した上はあなたにその調整をお願いします。詳しくは使者が口述しますので書きません。
追伸:鹿毛の馬を1疋進呈します。

如御札先年駿府参会令申候、其以後信国就在郡程遠故、無音罷過非本意候、仍遠山孫次郎殿依于御進退之儀、山四郎為指越候、先以本望候、今度当口指立人数知久・下条・松房・市田被加退治候、就中知久・下条両所之事、今深就悃望赦免候、内々以此次遠山江可乱入之趣被申付候処、従貴所蒙仰候筋目則令披露候、因茲可任其意之趣被致納得候条、於我等も施面目候、然上者、不令異見急度被出人質出仕候様、御馳走可為簡要候、様体山四可有口上候、猶自今以後者可申通候、御同意可為本望候、此等之趣奥大御伝達頼入候、恐々謹言、

九月二日

長坂筑後守

虎房(花押)

天野安芸守殿 御報

→戦国遺文 今川氏編1176「長坂虎房書状写」(備後天野文書)

1554(天文23)年に比定。

お手紙のように、先年駿府でお会い申しました。あれ以後は信濃国に在郡しておりまして、遠いことゆえご無沙汰しておりました。本意ではございません。さて遠山孫次郎殿の進退のことですが、山四郎(山縣四郎?)を派遣しました。まずは本望です。今度この方面にさし立てた部隊により、知久・下条・松房・市田が退治されました。とりわけ知久と下条の両氏は今深(今福・今井氏?)が懇望しているので赦免します。内々に次は遠山へ乱入するよう命令したところ、あなたより仰せいただいた筋目を披露し、このためその趣旨で運ぼうということで納得いただきましたので、私も面目を施しました。この上は意見を挟まず、取り急ぎ人質を出して出仕するよう、奔走することが肝要です。様子は山四が口頭で伝えます。更に今から以降は連絡を取り合いましょう。御同意いただけますと本望です。このことは奥大(奥山大膳亮)にもお伝えいただけますでしょうか。