上杉顕定、矢野憲信に、駿河国御厨在陣を労いつつ出動を要請する
永々在陣故、自駿州御厨帰宅、先以非無理候、既追日彼陣無勢之上者、以夜継日打越候者、可為感悦候、遅々不可宥曲候、謹言、 四月三日 顕定 矢野安芸守殿 →駿河台大学論叢第40号32「矢野安芸守宛書状写」(紀伊国古文書藩中古文 …
永々在陣故、自駿州御厨帰宅、先以非無理候、既追日彼陣無勢之上者、以夜継日打越候者、可為感悦候、遅々不可宥曲候、謹言、 四月三日 顕定 矢野安芸守殿 →駿河台大学論叢第40号32「矢野安芸守宛書状写」(紀伊国古文書藩中古文 …
今度走廻、為御感、被成御書候、謹言、 十一月五日 [古河公方晴氏御判也]在判 太田豊後守殿 →戦国遺文 古河公方編675「足利晴氏感状写」(感状写) 天文23年に比定。 この度の奔走、お感じになられました。御書状を成 …
今度馳参走廻之条、神妙候、 永正十七年八月廿八日 (高基花押) 中里対馬守とのへ →戦国遺文古河公方編537「足利高基感状」(伊沢正作氏所蔵文書) この度馳せ参じて活躍したのは、神妙です。
今度河越仁罷立御座候時分、懇申上候、殊ニ鷹進上、御喜悦候、巨細簗廻下野守仰含候、謹言、 六月朔日 [足利晴氏之由]花押 毛呂土佐守殿 →戦国遺文 古河公方編653「足利晴氏書状写」(山田吉令筆記所収家譜覚書) 天文15 …
大沢右京父子去年上田一戦之時討死、然処名代可相続骨肉無之歟、因茲為近所故、孫子亀寿致彼遺跡、忠儀不断絶様ニと申候哉、殊彼骨肉親類中ニ無拠遺跡可令相続人体罷出申事候者、其時者不及異義可相渡段、以書付申之間、任其義候、彼後家 …
御上洛之路次如何、無御心元候、抑一心院事、大概無相違候処、去年越州へ罷立以来、彼寺領有違乱之族相煩候、口惜存候、然而系図御上、於其偏失本意候、雖然於時宜者事成候間、門主之御前、公方様被得上意、被差越御代官等御刷候者、定治 …
[封紙ウハ書]「(異筆)『永正九年七月七日到来』横瀬新六郎殿 高基」 今度長尾但馬守相談、於其口大功候之条、忠信之至候、然者、至武州憲房出陣、被相急之様景長令談合、可加意見候、巨細昌松首座可令対談候、謹言、 七月二日 …
去々年以来、別而走廻、於在々所々忠節異于他之由、長尾新六注進、感入候、国本意候上、有勇様ニ可相計候、恐々謹言、 十月十七日 憲房 発知六郎右衛門殿 →駿河台大学論叢第41号 6「発知三郎右衛門宛感状写」(歴代古案三) …
徳誕蔵主死去、無是非候、然者、相守因幡守、無二励忠信候、■節■之者共江加意見候者、可為簡要候、巨細安西右京亮可申遣候、謹言、 閏十一月廿一日 (高基花押) [宛所欠] →戦国遺文 古河公方編544「足利高基書状写」(常総 …
対当方代々忠儀之上、殊釜形陣以来、別而被捽忠信条、感入候、可諄も同意候き、然間一所可相計由候処、慮外之進退之上、無其曲、雖然非可失其筋目候之間、任本願寺意見、雖少地候、小美野之内古山分并善徳寺分事、先可被相抱候、巨細三富 …