徳川家康、水野忠重の変死を報じ後継者を告知する
和泉殿不慮之 仕合ニ而被相果 不及是非候然者 六左衛門指越候 和泉殿ニ不相替 馳走肝要候謹言 七月廿五日 家康(花押) 上田清兵衛とのへ 鈴木次兵衛とのへ 同久兵衛とのへ →新編東浦町誌「徳川家康判物」 和泉守殿が思い …
和泉殿不慮之 仕合ニ而被相果 不及是非候然者 六左衛門指越候 和泉殿ニ不相替 馳走肝要候謹言 七月廿五日 家康(花押) 上田清兵衛とのへ 鈴木次兵衛とのへ 同久兵衛とのへ →新編東浦町誌「徳川家康判物」 和泉守殿が思い …
1559(永禄2)年 ○正月甲斐雪水大に民舎田圃を没す(妙法寺記)○十月十六日大雷雨十二月七日雷雨是日甲斐大雨水溢れて人家を没す(御湯殿上日記)○六月炎旱(厳助往年記)○是歳疫疾流行(妙法寺記) 1560(永禄3)年 ○ …
就西尾在城参百貫文之分、所宛行之也、昼夜用心普請已下、無油断先二三ヶ年可遂在城、末々之儀者、至于其時可申付、然者自余之番衆、就有無沙汰者、急度可加異見者也、仍如件、 弘治参年丁巳 十月九日 治部大輔(花押) 三浦左京亮殿 …
来翰祝着候、殊鮭給候、賞翫申候、随而当陣之儀、其以後就被成吉良殿逆心、近日西条へ動之儀申付、彼庄内悉放火、二百余討捕候、可御安心候、就中東口無別状候哉、承度候、猶期来信候、恐々謹言、 閏十月四日 義元(花押) 幻庵御房 …
去十六日於狐橋、被官小木源三郎切疵三ヶ所、木下藤次郎矢手、中村兵衛太郎切疵弐ヶ所、片切彦三郎矢手、小者一人矢手、各合鑓走廻候、此旨有御披露、御証判御申被下候者可畏入候、恐惶謹言、 八月廿五日 天野小四郎 虎景 飯尾善右衛 …
去十六日於狐橋合戦、走廻之段神妙也、殊親類被官合鑓分捕高名、蒙疵抽粉骨云々、甚以感悦之至也、弥可勤軍功之状如件、 天文十四 八月廿二日 義元(花押) 天野安芸守殿 →静岡県史「今川義元感状写」 去る16日、狐橋における …
去十六日於今井狐橋合戦、最前馳向射好矢并同心被官合鑓分捕高名、蒙疵抽粉骨走廻云々、甚以神妙候、感悦之至也、弥可抽軍功之状如件、 天文十四 八月廿二日 義元(花押) 天野小四郎殿 →静岡県史「今川義元感状」 去る16日の …
言継卿記 永禄二年二月二日 一、自尾州織田上総介上洛云々、五百計云々、異形者多云々、 2月2日、尾張国より織田上総介が上洛したという。500人ほどを連れ、異形の者が多いという話だ。 永禄二年二月七日 一、尾州之織田上総 …
定光寺年代記 (永禄)三年 五月十九日駿州義元尾州鳴海庄ニテ駿州軍勢一万人被打、 5月19日に駿河国の今川義元は尾張国鳴海庄に出撃、駿河軍勢1万人は討たれた。 醍醐寺理性院厳助僧正往年記 (永禄三年)四月 駿河今川尾州 …
一向寺部可取出之旨領掌訖、然者寺部城領半分令扶助間、山林野河共半分内者可令支配之、縦敵味方内雖有買得之地、不可及其沙汰事 一来年末三月中迄彼城無落居相支、其上以惣人数雖攻落之、既以自面兵粮其外過分失墜成取出之条、寺部分限 …