今度三州今橋之城小口取寄之時、了念寺へ可相移之由成下知候之処、不及異儀■前馳合堅固相踏之旨、忠功之至感悦也、今月十■日辰剋、同城外構乗崩之刻、不暁ニ宿城江乗入、自身■粉骨、殊同名親類被官以下蒙疵、頸七討捕之条、各別紙遺感状也、誠以度々軍功神妙之至也、弥可抽忠勲之状如件、
十一月廿五日
義元(花押)
天野安芸守殿
→愛知県史 資料編10「今川義元感状」(天野文書)
1546(天文15)年に比定。
この度三河国今橋の城虎口に攻め寄せた際、了念寺へ移動するよう指示が下り、異議を唱えず前線に出て手堅く踏み止まった旨は忠功の至りで感悦である。今月15日04時に同城の外郭を突破する際も、払暁前に宿城へ乗り入れて自ら骨を折り、特に同姓・親類・被官皆が負傷しつつ、首級7つを討ち取ったことは、それぞれ別紙で感状として発行している。度々の軍功は本当に神妙の至りである。ますます忠勲にぬきんでるように。