今川義元、東条氏家中が衣城攻撃に出陣したことを賞す
去十五日衣城知行分麦毛薙捨之処、為御合力各出陣、一段馳走之由、誠本望存候、委曲重而可申入候、恐々謹言、 四月廿三日 義元書判 東条殿御人数中 →新編岡崎市史「今川義元感状写」(三川古文書) 戦国遺文では1550(天文19 …
去十五日衣城知行分麦毛薙捨之処、為御合力各出陣、一段馳走之由、誠本望存候、委曲重而可申入候、恐々謹言、 四月廿三日 義元書判 東条殿御人数中 →新編岡崎市史「今川義元感状写」(三川古文書) 戦国遺文では1550(天文19 …
就高橋筋之儀、早速至于岡崎着陣之由候、■気之時分、辛労無是非候、飯尾豊前守・二俣近江守有談合、馳走専要候所、注進可差遣之人数候、猶朝比奈備中守可申候、恐々謹言、 十二月二日 義元判 奥平監物丞殿 →静岡県史「今川義元書状 …
年来出置知行名田等之事 右、如父六郎左衛門尉時、於当城走廻之上者、如前々不可有相違、但弟共有之由、各覚悟次第可加扶助、守此旨弥可抽忠功者也、仍如件、 永禄三庚申年 七月廿八日 氏真(花押) 鱸内三殿 →静岡県史「今川氏真 …
去廿五日、於土狩原合戦、最前馳合頸一野口討捕之、神妙之至甚以感悦也、弥可抽軍忠之状如件、 九月廿八日 義元 大村弥三郎殿 →静岡県史「今川義元感状写」(御家中諸士先祖書) 去る25日、土狩原合戦において前線で戦い首級1 …
遠江国犬居内知行分之事 右、任先判形之旨、永所領掌也、並棟別諸役以下、如年来免除之、若以増分雖有競望輩、不可有許容、出次第令所務、随其分量陣番可勤之、守此旨弥可励奉公之状、仍如件、 永禄ニ己未二月四日 氏真 尾上彦太郎殿 …
条目 一今橋・田原御敵ふせらるゝにおゐてハ、今橋跡職、名字之知にて御座候間、城共に可被仰付、御訴訟申候処、両所御敵を仕候間、今はし・田原之知行、河より西をさかい入くミなしに可被仰付候由候、此上兎角申たてかたく候間、如此候 …
敵信州表江就罷出候、自岩村被申越候、武節へ乍御大儀早ゝ可被相移候、不可有油断候、仍而如件、 十一月六日 家康 松平左近殿 1572(元亀3)年に比定。 →岐阜県史「徳川家康書状写」(武家事紀) 敵が信濃国方面に現われた …
去十月三日東根小屋へ夜討有之時分、其方出合、取首二ツ、馬廻衆夜討者四人生捕被指置候、手柄之段不申及、誠神妙ニ存候、無油断弥ゝ用心可被致候、為以来一筆如此ニ候、仍如件、 辰ノ朱印在 氏政判 岡谷隼人殿 →戦国遺文 後北条 …
崛懸之其方足軽共、拾人之内八人缺落候、為如何一跡をも不尋、無披露、油断ニ候、彼等かつれ之者共ハ、進退之続ハ安キ者ニ候、畢竟其方越度ニ候、早ゝ模様共有糾明、可承候、以上、 朱印在 四月九日 岡谷隼人殿 →戦国遺文 後北 …
一、昨日十一従兵被 仰付候東根小屋之者共、致一同岡谷隼人如下知、一備ニ有之可走廻、すこしなりとも岡谷はやと下知そむくニ付而者、くセことたるへく候、岡谷無用と申ニ付而者、取くひなりとも打捨、備まかりあるへき事、 一、かまり …