GoogleMapを利用した、桶狭間関連文書で記述された地点の一覧をページとして追加した。コメント付けが一部のみとなっており未完成であるものの、以後の参考となるよう掲示し、適宜コメントを追加する。
このマップで判明している特異点には以下のものが挙げられる。後の研究課題として考慮する予定。
- 岩村・武節・寺部を結ぶ三角地帯では、織田・武田・今川各氏の勢力が微妙に入り組んでいる。犬居から岩小屋に進出した天野氏が岩村衆と対峙している間武田氏はどのように動いていたか。
- 沓掛を拠点としたと思われる丹羽隼人が福外城に駐屯を命じられているが、どの勢力と対峙した位置関係なのかが不明(日進市方面の丹羽氏と沓掛の丹羽氏の関係も同じく不明)。
- 今川氏真書状で合戦関係地が沓掛・鳴海・大高に絞られているが、沓掛だけ少し離れている。敵方が織田氏であった場合最も前線にある鳴海だけが残り、沓掛・大高が自落したという記述がどのような状況を指しているか不明。
各地点の位置は、角川地名辞典と日本城郭大系によった。
今度於石瀬、無比類仕候、弥忠節肝用候、尚以高名無是非候、恐々謹言、
八月朔日
元康 御在判
筧平十郎とのへ
→新編岡崎市史「松平元康感状写」(内閣文庫)
この度石瀬において、比類なく従軍しました。ますますの忠節が肝要です。更なる高名は是非がありません。
感状写
一 今度東條津平仁致取出、為勲功津平之郷一円、永令領掌畢、
一 於津平敵之給人衆令忠節、雖罷退候、判形出置之上者、於津平之儀者、不可有相違事、
一 万一無事之儀候共、於津平不可有違乱事、
右条々相定之上者、永不可有相違者也、仍如件、
永禄四
六月廿七日
源元康
松井左近殿
→新編岡崎市史「松平元康判物」(松井文書)
一、この度東条の津平に砦を作ることとなり、その褒美として津平郷一円を末永く拠出する。
一、津平において敵の給人衆が忠節を行って退却したとしても、判形を発行した上は津平のことは相違があってはならない。
一、万一開戦しなかったとしても、津平については違乱があってはならない。
右の項目を定めた上は、末永く相違があってはならない。
判物
壬戌年七月廿六日崇山中山落城之砌、其方為高名西郷新左衛門子令生捕、則良知披官中谷清左衛門ニ被相渡候処ニ、依取逃之、彼清左衛門于今ニ令山臨候処ニ、其方曲事之由大原肥前守被申候間、今度其子細申分之上被聞分候間、度々忠節奉公申候之 御判形、我等為奏者被下候所明鏡也、為向後候条、我等一筆進候、仍如件、
関越
氏経(花押)
永禄六癸亥
三月一日
田嶋新左衛門尉殿
→愛知県史 資料編11「関口氏経判物」(本光寺常盤歴史資料館所蔵文書)
1562(永禄5)年7月26日、嵩山中山落城の時、あなたは高名を挙げて西郷新左衛門の子を生け捕りにしました。すぐに良知の被官である中谷清左衛門に渡していたところ、取り逃がしてしまい、清左衛門は今に至るまで山に蟄居しています。ところが、あなたに原因があると大原肥前守が申告しました。この度その詳細をご聴取されることとなったので、度々の忠節と奉公を申し上げ、私が取次役となって下される判形によって明白です。今後のために私から一筆書いておきます。
判物