壬戌年七月廿六日崇山中山落城之砌、其方為高名西郷新左衛門子令生捕、則良知披官中谷清左衛門ニ被相渡候処ニ、依取逃之、彼清左衛門于今ニ令山臨候処ニ、其方曲事之由大原肥前守被申候間、今度其子細申分之上被聞分候間、度々忠節奉公申候之 御判形、我等為奏者被下候所明鏡也、為向後候条、我等一筆進候、仍如件、
関越
氏経(花押)
永禄六癸亥
三月一日
田嶋新左衛門尉殿
→愛知県史 資料編11「関口氏経判物」(本光寺常盤歴史資料館所蔵文書)
1562(永禄5)年7月26日、嵩山中山落城の時、あなたは高名を挙げて西郷新左衛門の子を生け捕りにしました。すぐに良知の被官である中谷清左衛門に渡していたところ、取り逃がしてしまい、清左衛門は今に至るまで山に蟄居しています。ところが、あなたに原因があると大原肥前守が申告しました。この度その詳細をご聴取されることとなったので、度々の忠節と奉公を申し上げ、私が取次役となって下される判形によって明白です。今後のために私から一筆書いておきます。