去廿一日之御注進状、昨廿二於中途披見、抑去廿日、従厩橋人衆払而乗篭候之処、被防戦、号入江者為始十余人被討捕、被得勝利之由、御出陣之御物先与云、寄特之仕合、雖毎度之事候、感悦不浅存候、委曲於先陣可申述之間、省略候、恐ゝ謹言、

八月廿三日

 氏照(花押)

那波駿河守殿

  回答

→戦国遺文 後北条氏編2402「北条氏照書状」(桜井市作氏所蔵文書)

花押形より天正10年に比定。

 去る21日の報告書、昨日22日に途中で拝見しました。そもそも去る20日、厩橋より部隊を払って城に篭ったところ、防戦されて、入江と名乗る者を初めとして10余名を討ち取り、勝利を得られたとのこと。御出陣の幸先といい、素晴らしい戦果です。毎度の事ではありますが、感悦は浅からぬ思いです。詳しくは先陣にて申し述べますから、省略します。

[折紙]内ゝ自是可申入之由存刻預使者候、御書面一ゝ得心申候、此度小諸長ゝ御在城、昼夜之御苦労更難申尽候、於愚存者御苦労之段、朝暮雖覚悟候、手前之事候間、以使さへ不申入候、背本意候、番所大道寺被相渡、当陣江御移者、満足候、猶自是可申述候、次一種送給候、芳志之至可令賞味候、以上、

 十一月六日

  氏照(花押)

[上書]国分殿 御報

  奥州

→戦国遺文 後北条氏編2442「北条氏照書状写」(隨得集)

天正10年に比定。

 内々でこちらから申し入れようと考えて使者を預かっていました。ご書面は一つ一つ了解しました。この度は小諸に長々とご在城で、昼夜のご苦労はまた申し尽くせません。私めはご苦労の事と朝夕思い返していましたが、身の回りのことに追われ使者すら出しませんでした。本意ではありません。番所は大道寺にお渡しいただき、当陣へお移りになり満足です。更にこの者より申し上げるでしょう。また、1種お送りいただきましたお心遣いはこの上ないもので、ありがたく味わわせていただきます。

廿六日一翰今朔日披見候、去廿二出馬、非豆州表候、向甲州至于深沢出馬、彼表作毛相州一国之鍬持を集、悉無残所穿鑿候、敵一騎一人不出逢候、然間去月廿七令帰陣候、就中自然敵返動境目へも可成歟与校糧、今日五手六手豆州表半途迄指越候、此外無珍儀候、依之下総衆悉相返候、今程能ゝ休息、来秋之支度専一候、随両種到来、令賞翫候、又一合進之候、恐々謹言、

五月朔日

 氏政(花押)

酒井伯耆守殿

→小田原北条氏文書補遺100「北条氏政書状」(『思文閣古書資料目録187号』所収文書)

小田原市史では天正9年に比定。『後北条氏年表』でも同年比定しているが、前後の文書から天正8年でも成立すると考えられる。

 26日の書状を今日1日に拝見しました。去る22日に出馬、伊豆ではなく甲斐国へ向かって深沢に馬を出しました。あの方面の作物は相模国の鍬持ちを集めて残すところなく悉く掘り返しました。敵は1騎・1人とも遭遇しませんでした。そうこうするうち、先月27日に帰陣しました。とりわけ万一敵が引き返して国境に行くかとも考えて、今日5手・6手に伊豆国方面の途上へ配置しました。このほか珍しいことはありませんでしたので、下総衆を全て帰しました。今はよくよく休息して、来る秋の準備に専念するのが大切です。さて、両種が到来したのでいただきます。また1合をお送りします。

「[封書上書]仁杉与兵衛殿」

去九月岩下口へ馳、乗籠、敵壱人討捕之由、富永能登守披露、高名之至無比類候、弥走廻ニ付而者可引立者也、仍而如件、

天正八年[庚辰]

  六月十六日  (北条氏政花押)

仁杉与兵衛殿

→小田原北条氏文書補遺24「北条氏邦感状写」(本朝武家諸姓分脈系図仁杉・伊東)

 去る9月に岩下口へ行って乗り込み、敵1人を討ち取ったとのこと。富永能登守が披露し、高名の至りで比類がありません。ますます活躍するなら引き立てるでしょう。