北条氏邦、岡谷隼人に逃亡した足軽の糾明を命ず
崛懸之其方足軽共、拾人之内八人缺落候、為如何一跡をも不尋、無披露、油断ニ候、彼等かつれ之者共ハ、進退之続ハ安キ者ニ候、畢竟其方越度ニ候、早ゝ模様共有糾明、可承候、以上、 朱印在 四月九日 岡谷隼人殿 →戦国遺文 後北 …
崛懸之其方足軽共、拾人之内八人缺落候、為如何一跡をも不尋、無披露、油断ニ候、彼等かつれ之者共ハ、進退之続ハ安キ者ニ候、畢竟其方越度ニ候、早ゝ模様共有糾明、可承候、以上、 朱印在 四月九日 岡谷隼人殿 →戦国遺文 後北 …
一、昨日十一従兵被 仰付候東根小屋之者共、致一同岡谷隼人如下知、一備ニ有之可走廻、すこしなりとも岡谷はやと下知そむくニ付而者、くセことたるへく候、岡谷無用と申ニ付而者、取くひなりとも打捨、備まかりあるへき事、 一、かまり …
先度以後可申通覚悟処、尾州当国執相ニ付而、通路依不合期無其儀候、其御理瓦礫軒安心迄申入候、参着候哉、仍一昨日辰刻、次々■朝倉太郎左衛門、尾川州織田衆、上下具足二万五六千、惣手一同至城下手遣仕候、此方雖無人候罷出、及一戦織 …
今日辰刻、於土居口合戦被討捕山田惣三郎、粉骨無比類候、連ゝ不可有疎意候、恐々謹言、 四月廿日 范可(花押) 桑原甚三殿 進之候、 →岐阜県史「斎藤義龍書状」(桑原文書) 1556(弘治2)年に比定。 今日午前9時頃、 …
其後絶音問候、本意外候、、仍先月濃州相働、井口近所取出城所ゝ申付候、然者、犬山令落居候、其刻金山落居候、其外数ヶ所降参候条、令宥免候、其上勢州辺迄、如形申付候、以直書申候条、不能具候、恐々謹言、 九月九日 信長 直江大和 …
就在陣之儀、御尋快然候、殊枝柿五十・抹茶拝受、御懇情之至候、猶武井可申候、恐惶敬白、 五月廿一日 斎藤左近大夫 道三(花押) 拝進汾陽寺 尊答 →岐阜県史「斎藤道三書状」(汾陽寺文書) 在陣のことについてお尋ね戴 …