崛懸之其方足軽共、拾人之内八人缺落候、為如何一跡をも不尋、無披露、油断ニ候、彼等かつれ之者共ハ、進退之続ハ安キ者ニ候、畢竟其方越度ニ候、早ゝ模様共有糾明、可承候、以上、

 朱印在

四月九日

 岡谷隼人殿

→戦国遺文 後北条氏編「北条氏邦朱印状写」(北条氏文書写)

 崛懸のあなたの足軽10名のうち8人が逃走しました。何がしかの追跡も行なわず報告もなく、油断していたことです。あの者が連れて行った者達は、守るべき権益のない者ですから、結局あなたの落ち度です。早々に状況を調べるよう、承知して下さい。

一、昨日十一従兵被 仰付候東根小屋之者共、致一同岡谷隼人如下知、一備ニ有之可走廻、すこしなりとも岡谷はやと下知そむくニ付而者、くセことたるへく候、岡谷無用と申ニ付而者、取くひなりとも打捨、備まかりあるへき事、

一、かまりありて事も岡谷下知之ことく、備をあけへく候、

一、いつれのものなりとも、そなへはにをゐて、かりそめの事なり共、致雑談ましく候、はやと一人斗物を可申付事、

    以上、

拾三ヶ条、すこしなり共そむくニ付而ハ、なにせうしんも入ましく候、くせことなるへき者也、仍如件、

  朱印在

五月十日

岡谷隼人殿

東根小屋衆中

猪俣代

→戦国遺文 後北条氏編「北条氏邦朱印状写」(北条氏文書写)

 一、昨日11名の兵を従えて東根小屋配属を仰せ付けられた者は、岡谷隼人の命令に一同従って一の備えに奮闘するように。少しでも岡谷隼人の命令に背くことは違法とします。岡谷が不要であるとするならば、討ち取った首級も放棄して防備に専念すること。
 一、『かまり』があってのことも岡谷の命令の通り備えを空けるように。
 一、何れの者であっても、防御陣地において、かりそめにも雑談をしてはならない。隼人だけが命令を下すこと。
 この3箇条に少しでも背くならば、『なにせうしん』も入れてはならず、違法とする。

先度以後可申通覚悟処、尾州当国執相ニ付而、通路依不合期無其儀候、其御理瓦礫軒安心迄申入候、参着候哉、仍一昨日辰刻、次々■朝倉太郎左衛門、尾川州織田衆、上下具足二万五六千、惣手一同至城下手遣仕候、此方雖無人候罷出、及一戦織田弾正忠手江切懸、数刻相戦、数百人討捕候、頸注文進之候、此外敗北之軍兵、木曽川へ二三千溺候、織田六七人召具罷退候、近年之体、隣国ニ又人もなき様ニ相働候条、次勝負候、年来之本懐此節候、随而此砌松三被仰談御国被相国尤存候、猶瓦礫軒可有御演説候、可得御意候、恐惶謹言、

九月廿五日

義元

水野十郎左衛門尉

   人々御中

→静岡県史「今川義元書状写」(古簡雑纂七・水府明徳会彰考館所蔵)

 ご連絡しようと考えていましたが、尾張国とこの国で戦闘があったため、通信がうまくいきませんでした。瓦礫軒と安心軒に説明を頼みました。到着しましたでしょうか。さて一昨日辰の刻、次々(?)朝倉太郎左衛門、尾張国織田衆、将官から兵士まで2万5~6000人が城下に一斉来襲しました。こちらは寡兵でしたが出撃し、織田弾正忠の部隊へ切りかかりました。数刻戦闘して、数百人を討ち取りました。その首級リストをお送りします。このほか敗兵は木曽川で2~3000人が溺れて、織田弾正忠は6~7人に守られて退却しています。ここ数年は、隣国へも傍若無人に荒らしまわっていたので、次いで決戦します。年来の本懐はこの時です。このような折、『松三』(松平三蔵?)へお話いただき、あなたの国をしっかり固めるのが大切です。さらに瓦礫軒が申し上げるでしょう。お心に添いますように。

長井久兵衛書状と文面が酷似しているが、こちらが差出人を誤写したものと思われる。木曽川が戦場となっている点と斎藤利政書状が関連することから判断。

今日辰刻、於土居口合戦被討捕山田惣三郎、粉骨無比類候、連ゝ不可有疎意候、恐々謹言、

四月廿日

范可(花押)

桑原甚三殿

 進之候、

→岐阜県史「斎藤義龍書状」(桑原文書)

1556(弘治2)年に比定。

 今日午前9時頃、土居口の合戦で山田惣三郎を討ち取られました。粉骨は比類がありません。引き続き疎かにすることはないでしょう。

其後絶音問候、本意外候、、仍先月濃州相働、井口近所取出城所ゝ申付候、然者、犬山令落居候、其刻金山落居候、其外数ヶ所降参候条、令宥免候、其上勢州辺迄、如形申付候、以直書申候条、不能具候、恐々謹言、

九月九日

信長

直江大和守殿

 御宿所

猶ゝ、爾来無音之旨趣、佐ゝ可申入候、以上、

→岐阜県史「織田信長書状写」(歴代古案)

1567(永禄10)年に比定。

 その後ご連絡しませんでしたが、本意ではありませんでした。先月は美濃国に出撃し、井口の近隣に砦(構築)を指示しました。ということで、犬山は落居させ、同時刻に金山も落居しました。そのほか数箇所が降参しましたので、許しました。その上伊勢国方面まで形のように申し付けています。直接の書状で申しますので、詳しくは書きません。
 なおまた、ご連絡しなかった事情については佐々が申し上げるでしょう。

就在陣之儀、御尋快然候、殊枝柿五十・抹茶拝受、御懇情之至候、猶武井可申候、恐惶敬白、

五月廿一日

斎藤左近大夫 道三(花押)

拝進汾陽寺

   尊答

→岐阜県史「斎藤道三書状」(汾陽寺文書)

 在陣のことについてお尋ね戴き嬉しく思います。特に枝柿50と抹茶を戴きましたことは、ご懇情の至りです。さらに武井が申し上げるでしょう。