武田信虎追放の原因について、約束手形不履行を家臣たちが糾弾したからではないかと検討してみた。これは今川義元にも当てはまるかも知れない。

義元は、自身の家督継承時から後北条氏に奪われたままだった河東郡の奪還を企図していた。1545(天文14)年に武田晴信とともに長久保まで攻め入るが、結局最終的な決め手に欠けて和睦となる。とはいえ河東郡は今川方となった訳で有益ではあったのだが、途中で晴信が懸念を示す書状を出すほどの意気込みだった。

 

中でも長久保の城を攻めている件は、たとえ氏康が滅亡するといえども、数十年はかかります。関東衆(山内・扇谷の上杉氏)が相模国・伊豆国を本意としてしまい、所領の争点を現状に戻せるでしょうか。かれこれの条件から意見を統一し、しかるべく奔走しています。今から以後、意固地に拘る者には、この趣旨で説得します。

 

この文中で晴信が書いている「有偏執之族=意固地に拘る者」は義元本人だったのではないか。大名同士の政治バランスで考えると、3家ともに外敵を抱えている状況であるから晴信の主張が正しい。しかし、知行を約束して駆り出された今川の国衆たちからすると、これまで後北条に与していた河東の国衆が知行を安堵されることになってしまう。案の定、この時に新知行を割り振られたという文書は残されていない。後北条方とは和睦となったから、葛山氏をはじめとする河東在地の国衆権益は保障する条件を受諾せざるを得なかったのだろう。

そこで義元は、三河では駿河・遠江の国衆を優遇して、牧野・奥平・菅沼・大給松平の各氏に高圧的に臨んだのかも知れない。河東に続いて三河でも恩賞なしだと今川方が崩壊する可能性があったのだろう。