猿ケ京之城岸ニ而、山口甚七郎生捕候之事、無比類候、本意之上、可引立者也、

卯 五月廿一日

氏邦(花押)

片野善助殿

→戦国遺文 後北条氏編 2071「北条氏邦感状」(片野文書)

天正7年に比定。

 猿ケ京の城岸にて、山口甚七郎を生け捕りにしましたこと、比類がありません。本意の上で引き立てるでしょう。

[折紙]於山上戸張際、敵数多討捕之由、高名之至、無比類候、弥可抽戦功者也、仍如件、

二月廿七日

 (北条氏邦花押)

北爪将監殿

→戦国遺文 後北条氏編 2145「北条氏邦感状」(北爪守雄氏所蔵文書)

天正8年に比定。

 山上戸張の際において、敵を多数討ち取ったとのこと。高名の至りで比類がありません。いよいよ戦功にぬきんでるように。

[折紙]知行方

四貫文 広木御領所分

拾貫文 於西上州被下、

 以上、拾四貫文

右、近年無足おゐて走廻候間、如斯出置候、壱疋一両相嗜、弥ゝ可走廻、進退不被罷成ニ付而者、重而可加扶持者也、仍如件、

辰[翕邦把福朱印]三月六日

金井源左衛門尉殿

→戦国遺文 後北条氏編 2147「北条氏邦朱印状」(金井箔氏所蔵文書)

天正8年に比定。

 知行方。4貫文 広木御領所分。10貫文 西上野国にて下される。以上14貫文。右は、近年無足で活躍しましたので、このように拠出します。1疋と1両を嗜んで、ますます活躍するように。進退が立ち行かなくなったら、重ねて扶持を加えるだろう。

十八日敵退散之注進状、昨廿日夜中到来候、敵至■退散者、陸奥守相談、彼作意次第早ゝ帰陣尤候、帰陣ニ付而者、万端自是可申遣候、恐ゝ謹言、

五月廿一日

氏政(花押)

酒井伯耆守殿

→戦国遺文 後北条氏編 2070「北条氏政書状写」(静嘉堂本集古文書ア)

天正7年に比定。

 18日に敵が退却したとの報告書。昨日20日夜中に来ました。敵の退却は陸奥守と相談し、彼の判断次第で早々に帰陣なさるのがよいでしょう。帰陣については、万端こちらよりご連絡します。