主に今川氏から見た『岡崎』の帰属について列挙。天文後半から永禄初頭までをまとめたが、その動向は一定ではない。

1548(天文17)年3月11日 不明 織田方に攻囲・接収?

仍三州之儀、駿州無相談、去年向彼国之起軍、安城者要害則時ニ被破破之由候、毎度御戦功、奇特候、殊岡崎之城自其国就相押候、駿州ニも今橋被致本意候、其以後、萬其国相違之刷候哉、因茲、彼国被相詰之由承候、無余儀題目候

北条氏康は織田信秀に「岡崎の城がその国から押さえられたので」と書き送る。拠点として失効しているようで、織田方に攻囲か接収された可能性がある。

1550(天文19)年11月19日 今川方 松平広忠が反尾張陣営として在城

先年尾州岡崎取合之刻、対広忠令無沙汰之条、彼神田召放、依為忠節、自去年出置之云々、然者勤相当之神役、可支配之、若先禰宜雖企訴訟、一切不可許容之者也、仍如件、

今川義元は三河国人長田氏に「尾張と岡崎が取合の際、広忠に納税しなかったのであの神田を改易した忠節」とある。

1550(天文19)年?12月2日 不明 高橋方面のことで、奥平監物が着陣

就高橋筋之儀、早速至于岡崎着陣之由候

今川義元は奥平監物に「高橋(衣領)方面のこと、早速岡崎に着陣されたと聞きました」と書状を書く。

1550(天文19)年?12月15日 不明 牧野田三が岡崎方面で奔走

就高橋雑説、自最前岡崎筋御馳走、御陣労察存候、

太原崇孚は牧野田三に「高橋の雑説について、最近岡崎方面で奔走されており、陣地の苦労をお察ししています」と追伸する。

1553(天文22)年3~4月 今川方 紛争地帯と隣接

大村家盛道中記、岡崎は今川方として記述

1554(天文23)年10月15日 今川方 納税先として指定

先規岡崎江令納所本成

三河山中郷の本年貢の納付先として岡崎が登場。

1554(天文23)年11月2日 今川方 糟屋備前守から戸田・匂坂氏に岡崎城番が変更

就今度岡崎在城、長能・宗光両人江弐百五十貫文■令扶助之也、然者糟屋備前守同前諸事可走廻

匂坂長能と戸田宗光が岡崎城番に命じられる。その先任である糟屋備前守と同じく奔走せよと言われる。

1556(弘治2)年 反今川方 足立氏が上野城に退去

去辰年上野属味方刻、勝正同前ニ従岡崎上野城へ相退砌も、既尽粉骨之上、彼城赦免之儀相調之間

1556(弘治2)年に上野城が今川方になった際、足立勝正・甚尉兄弟は岡崎から上野城へ退却して尽力、岡崎城を赦免するよう調整した。岩瀬氏の例にあるように「逆心を打ち明けられる→慌てて近隣の城に退く→後から顕彰される」という流れがこの時代の今川氏でよく見られるパターン。つまり上野が敵から寝返ったのではなく、岡崎の逆心に対して上野は今川方に留まることを選んだと考えると自然である。

1556(弘治2)年2月3日 反今川方? 近隣の上野城で今川方の軍資金が消費される

今度上野城所用

上野城で軍資金が必要な事態が発生する。

1558(弘治4)年2月26日 今川方 城番変更

相止番手如年来之以自力可在城于岡崎之旨

寺部攻囲中の匂坂長能に岡崎城番を免除する旨告知。

1558(永禄元)年4月24日 今川方 広瀬氏を撃退する

去廿四日寺部へ相動之刻、廣瀬人数為寺部合力馳合之処、岡崎并上野人数及一戦砌

寺部城を巡り、岡崎と上野の軍が広瀬氏と交戦する。

1558(永禄元)年閏6月20日 今川方? 雑説が流れる

今度岡崎雑説出来候処、無別儀無事候間

朝比奈泰朝、大樹寺に「今度の岡崎に不穏な噂が流れたところ、別段何事もなく済んだので……」と告げる。
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2 comments untill now

  1. 巴々佐奈 @ 2010-01-12 22:21

    高村様
    先だってご返事のお礼方々、簡略ながらコメントをこちらにつけさせていただきます。こうして史料を並べて読むと非常に興味深い流れですね。
    >1548(天文17)年3月11日 不明 織田方に攻囲・接収?
    ご存知よりのこととは思いますが、安城市史でも似た読み方をしています。しかし、同書ではこの史料以外に信秀の岡崎領有を示すものはなく、氏康が『岡』の城(松平蔵人信孝が砦を築いたとされる場所)を『岡崎』と取り違えたのなら頷けると書かれています。私自身は氏康が信秀の書状を『貴札』と表現しているところから、『其国』の『其』が信秀もしくは、尾張を意味するという読み方には懐疑的です。
    >1550(天文19)年11月19日 今川方 松平広忠が反尾張陣営として在城
    通説に基づくとこの書状が書かれた時点では、広忠は死んでおり、今川勢は岡崎、安城および、竹千代の身柄も確保していることになってますね。本書状が『竹千代知行』とあるのは、本来広忠知行地であったものが、竹千代に相続されており、その管理を長田喜八郎に委ねられたということでしょうか。いずれにせよ広忠が織田方に寝返ったとは書かれていません。氏康書状が信秀による岡崎接収を意味すると仮定すれば、広忠の死は通説よりも早かったという可能性も出て来るかもしれませんね。
    その他、弘治二年と永禄元年の岡崎の動静は興味深いですね。但し反今川であっても、織田方とは限りませんね。色々解釈できそうで面白いです。
    先だって戴いたコメント、安城陥落天文十六年説の補強史料を当方も探しておりますが、そのような史料があるとは存じませんでした。ご紹介ありがとうございます。
    > 安城の帰属ですが、1544(天文13)年に安城の与三郎ひろ定が深溝松平氏に年貢納入を約束していますので、安城が松平方であったのは間違いないと思います。
    こちらの書状、掲載している刊本がありましたら書名をご教示願えませんでしょうか。
    よろしくお願いいたします。[パンダ/]

  2.  コメントありがとうございます。私の場合、自治体史は資料編を書写するのに必死で通史編を読んでいなかったりします。「岡の城」の件、ご教示いただき、参考になりました。広忠の没年については、「松平蔵人」が史料上どのように登場するかで改めて考察できればと考えています。ただ、暫くは愛知県史資料編10からの史料アップが続きそうなので少し時間がかかるかも知れません。
     ご質問いただいた「ひろ定」請文も、愛知県史資料編10に掲載されております。説明不足ですみませんでした……。とりあえずエントリーしておきましたのでご参考になればと思います[あわわ/]