古河公方の歴代当主は、「相守」を用いる特殊な書状を発給することが判った。便宜上この文書を『相守文書』として検討をしてみる。定義は以下の通りとなる。
- 文書の宛名が古河公方直臣の被官
- 「相守」の語の後に直臣の名を記し、それを褒賞する文言が続いて終わる
- 文末は「也」が7例で大半を占める。「如件」が2、「謹言」が1例。
- 「相守」の前には「無二」が置かれることがある
- 「無二」の前に更に文言が置かれることがある
10通のうち3通が小山氏宛であり、さらに成氏による初見文書も小山梅犬丸である点、その他の赤井・皆川・真壁の何れも利根川左岸である点から、古河公方に直属する国衆が対象といえる(07号毛呂土佐守宛を除く)。
残存文書で最も新しいのは義氏のものだが、これは上杉輝虎が大規模な遠征を行ない、庶兄藤氏を古河公方に擬した1560(永禄3)年12月に出されている。また、その父である晴氏は1547(天文16)年12月に出しているが、この前月に彼は後北条氏に身柄を拘束されている。政氏と高基父子の文書が多いのも合わせて考えると、相守系文書は、古河公方の地位が深刻なものになった際に出されると仮定される。
つまり、自派についた国衆の被官(公方から見て陪臣)を認めるような内容であって、被官ごと包摂することでその国衆の離脱を阻止したい目的ではないだろうか。小山氏被官に向かって政氏・高基がそれぞれ発していることがそれを示しているように思う。
■類似文書の一覧
差出 |
宛先 |
敬称 |
発行日 |
対象想定者 |
状態 |
|
01 |
成氏 |
島津隼人佐 |
とのへ |
3月29日 |
小山梅犬丸 |
現存 |
02 |
政氏 |
栃木大炊助 |
とのへ |
11月23日 |
小山成長 |
写 |
03 |
政氏 |
小野崎越前守 |
殿 |
8月9日 |
佐竹義舜 |
現存 |
04 |
政氏 |
正木図書助 |
とのへ |
10月17日 |
簗田政助 |
現存 |
05 |
政氏 |
富岡玄蕃允 |
殿 |
1512(永正9)年10月30日 |
赤井重秀 |
現存 |
06 |
政氏 |
長江左京亮 |
殿へ |
12月3日 |
皆川成勝 |
写 |
07 |
高基 |
毛呂土佐守 |
殿へ |
9月5日 |
上杉憲房 |
写 |
08 |
高基 |
栃木雅楽助 |
とのへ |
2月5日 |
小山政長 |
写 |
09 |
晴氏 |
富岡主税 |
とのへ |
1547(天文16)年12月28日 |
赤井文六 |
現存 |
10 |
義氏 |
江木戸豊後守 |
とのへ |
1560(永禄3)年12月29日 |
真壁久幹 |
現存 |
■文書の内容
文頭 | 対象者 | 文末 | ||
01 | 無二 | 相守 | 梅犬丸 | 致専公儀之忠節候者、可為神妙候也 |
02 | 相守 | 成長 | 存忠信之条、神妙候也 | |
03 | 無二仁 | 相守 | 右京大夫 | 可存忠儀候也 |
04 | 相守 | 右京亮 | 致堪忍之条、神妙候也、 | |
05 | 相守 | 刑部太輔 | 無二忠信之由聞召之条、神妙也、弥可存其旨之状如件 | |
06 | 相守 | 成勝 | 走廻之条、神妙之至也 | |
07 | 椙山之陣以来 | 相守 | 憲房 | 走廻之条、神妙之至候、謹言 |
08 | 政長復先忠之上、無二 | 相守 | 走廻候者、可為神妙候也 | |
09 | 相守 | 千代増丸 | 走廻之条、神妙之至也 | |
10 | 相守 | 久幹 | 今度走廻之条、神妙之至、感思召状如件 |
文書では「相守」の後ろに対象者(守る対象)が来る。08号のみ小山政長が前文に先行して登場するため変則となっているため異質。また、「相守」の前に文が来るのは9例中4例。初例の01号で成氏が「無二」とつけているのを墨守し、03号・08号では「無二」を使っている。07号のみが「無二」については異質である。また、文末に「謹言」が用いられているのも3号のみ。
また、「相守」が含まれる官途状に「義昌」という人物が福田民部少輔に宛てた1584(天正12)年のものがある。
相守譜代之筋、神妙仁走廻之条、官途被下置也、
天正十二年
七月廿八日
義昌(花押)
福田民部少輔殿
但しこの文書は、以下の根拠から古河市史では検討を要すとしている。
本文書は、義昌なる人物が福田氏に民部少輔の官途を与えた官途状である。義昌と福田氏は主従関係にあったことになるが、一体義昌とはだれであろうか。それは、この周辺では常陸の佐竹氏一族小野崎義昌の他には考えられないのである。ただ本文書の天正一二年当時の佐竹氏は、各地で後北条氏と戦っている最中であって、義氏亡き後の公方家臣も事実上後北条氏勢力に包摂されていた以上、敵対する両者間で主従関係を結ぶことは不可能であったのではなかろうか。また文書内容でも、すでに天正四か五年頃に福田氏は民部丞から民部少輔に昇進しており、新たな昇進の意味が解せないのである。後継者とも考えられるが、年代が近接しすぎよう。字体等もさることながら、本文書にはなお研究の余地があろう。
この見解は、その他「相守文書」を俯瞰した際も同意できる。03号で足利政氏から小野崎越前守に宛てられていたことから考えても、古河公方当主しか発給しない性質の文書であり、何らかの事情で03号文書を元に偽作された可能性が高いと判断できる。
上記より、義昌の官途状は『相守文書』を元にした偽文書ではないかという公算が強いといえる。また、突出して異例な形式を持つ07号文書についても、何らかの改変を疑うべきだろう。