史料の検討から大藤隊が約500名で構成されていたと確定した。とはいえ、軍記や講談、一部書状内での内容から「戦国の軍隊は千~万単位で機能していた」という概念から考えると、精鋭の足軽衆が500名というのは少な過ぎると思われる。そこで、同時代の一次史料で実数を記したと思われる案件(徴兵数の検査、味方内での連絡など)を更に検討してみる。

 上記から、戦略単位の兵員数は300~600名、戦術的には50名からの配置が例として存在することが判明した。
 さらに、越後方が小田原城を攻囲した合戦で、後北条氏の主力は大藤隊だったのかという疑問も検討する。大藤隊は少数でゲリラ戦を行なう臨時措置の戦術単位だったとも考えられるためだ。
 1561(永禄4)年時点で、北条本家(氏康・氏政)以外で大規模な軍団を構成できたと思われるのは、小机の北条氏尭・玉縄の北条綱成・久野の北条宗哲・蒔田の吉良氏朝・江戸の遠山氏が想定できる。このうち、北条氏尭は川越(畑氏宛氏尭書状)、吉良氏朝は玉縄(高橋氏宛氏康書状)、北条宗哲は小田原(大藤氏宛書状)に籠城している。江戸の遠山氏は所在が不明だが、氏康が「河越・江戸をはじめとする7~8箇所は無事だった」(金剛王院宛書状)とあることから、江戸に籠城していたのだろう。
 後に活躍することとなる氏政の兄弟衆はまだ幼弱で、氏政次弟の氏照がようやく朱印状で指揮している程度に過ぎない(小田野氏宛朱印状)。
 不可解なのは北条綱成で、氏康は彼が遠くに出征していたと述べている(箱根別当宛書状)。事実、史料には登場しない。綱成が出征していたのは陸奥国白河か三河国衣郡だと思われるが、この件は別に精査する。
 書状が全て遺されているとは思えないことから、大藤隊以外の存在も否定はできない。同程度の兵数で構成された別の隊が存在していた可能性もある。しかし、「大藤を招集したので城から出るな」と氏政が言明したこと(某宛書状)を考慮すると、大藤隊を戦闘能力の高い機動部隊とし、他は籠城させるという後北条氏の作戦が存在したと判る。これは1561(永禄4)年時の作戦成功を受けての措置だろうから、この時も大藤隊が主力機動部隊だったと推測できるだろう。

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