松平広忠、筧重忠の松平忠倫殺害を賞す
今度三左衛門生害之儀、忠節無比類候、此忠於子々孫々忘間敷候、然者為給恩、万疋之知出置候、雖為何儀候、於末代不可有相違候、在所者別ニ日記出置候也、 天文拾六年 十月廿日 広忠 御在判 筧平三とのへ →愛知県史 資料編10「 …
今度三左衛門生害之儀、忠節無比類候、此忠於子々孫々忘間敷候、然者為給恩、万疋之知出置候、雖為何儀候、於末代不可有相違候、在所者別ニ日記出置候也、 天文拾六年 十月廿日 広忠 御在判 筧平三とのへ →愛知県史 資料編10「 …
御寺領如来寺分附而大賀久衛門無躰之条々 一 あつかりめんとて押領之事、道閲御寄進より、一向さたもなき事、 一 五位分年貢弐百、同御寺領之田地を分而被取候事、殊せられやう不謂仕立之事、 一 大田五郎左衛門尉久敷作式押而奪取 …
こゝもとなりかにて弐十俵、明年よりいらんなくしんしやう申へく候、すこしも無さた申ましく候、そのためこ一筆申候、かしく、 天文十三年 十一月十一日 ひろ定(花押) (ウワ書)「(墨引)ふかうす殿御上さま 参 人々御中 …
壬子 廿一 三月九日ニ織田備後殿死去、九月駿州義元八事マテ出陣、 →愛知県史 資料編10「定光寺年代記」(定光寺文書) 1552(天文21)年に比定。
尚以、急度進退者被替候而、尤に存候ゝゝ、其方より可申候事と此方より申事候、分別あるへく候、尚以、しよたいをくつし候へハ我々そうさ大儀迷惑仕候へとも、借銭共とも仕候へハ、落居いかゝと存申事に候、かほもて首のあかをとり候て …
去年一乱以前借物之事、就敵筋者、縦雖有只今免許不及返弁、先当年貢急度可弁済物也、若就旧借之儀有入催促使輩者、彼使不及許容、依注進可加下知者也、仍如件、 天文十六 九月二日 山中七郷 其外医王山知行分 →愛知県史 資料編1 …
主に今川氏から見た『岡崎』の帰属について列挙。天文後半から永禄初頭までをまとめたが、その動向は一定ではない。 1548(天文17)年3月11日 不明 織田方に攻囲・接収? 仍三州之儀、駿州無相談、去年向彼国之起軍、安城 …
参河国山中新知行之事 右、医王山取出割、就可抽忠節、以先判充行之上、当国東西鉾楯雖有時宜変化之儀、彼地之事、永不可有相違也、弥可専勲功状如件、 天文十六 八月廿五日 今川義元也 治部大輔判 作手仙千代殿 藤河久兵衛尉殿 …
■年於参河国今橋城、令内通存忠節、任契約之旨、細谷代官并給分■拾貫文令補任之、 右、任雪斎契約之旨、所充行之也、■可抽忠節之状如件、 天文十六 二月三日 治部大輔(花押影) 野々山甚九郎殿 →愛知県史 資料編10「今川義 …
今度依忠節、当城扶助員数、代官等為替地、細屋郷可被捕任也、出仕之上御判■■沙汰者也、仍如件、 天文十五 十二月十四日 雪斎 崇孚判(花押影) 野々山甚九郎殿 右ハ折紙也、 →愛知県史 資料編10「太原崇孚判物写」 …