去ゝ月、此方使僧帰路之節、尊書并貴国家老従両人芳問、何以致拝披候、条々御懇之趣、本望之至候、其以来、則太守へ竜興雖可被申展候、遠山かたへ始末被迎送、彼方誓紙已下相固、可為申候歟、是又御指南次第候、両所へ愚報乍恐可預御伝達候、
一濃・尾間之事、先書ニ如申入候、公方様御入洛ニ付而、織田上総参陣御請申之条、対尾州此方矢留め之儀、令同心者可為忠節之由、被仰出候、参陣一向雖不実存候、不肯申者、為濃州相妨 御入洛之条、非已越度之通可申成、巧与令分別候、若又於治定者、公儀御為可然存候、旁以悉任御下知之由、罰文已下相認、細川兵部大輔殿返々申候間事
一織田可罷透江州、路次番等も相調之間、参陣差急候様ニと、細兵重而尾へ下向候て催促之処、至此期織上令違変候、此方ニハ兼而案々図候条、更不事新候、公儀御無興言語道断、被撃 御手之由候、過賢察候、去春已来三好かたより、種々懇望仕候、其外御調略之筋、幾重ニ存之由候き、彼等依妄言、御上洛相滞、剰江州矢嶋御逗留も難届式候之間、朽木歟若州辺へ可被移御座之旨候、無是非題目候、織上天下之嘲弄不可過之候、如此之間、竜興奉対 公儀不存疎意段も、無詮成行候事
一去月廿九日織上当国境目へ出張候、其時分以外水迫候て、河表打渡、河野島へ執入候、即時ニ竜興懸向候、依之織上引退、川縁ニ居陣候、国之者共限堺川詰陣を取続相守候、自出張之翌日、風雨濃水ニ付而、自他不及行候き、漸水引候間、取懸可相果之由令儀定候之処、去八日未明ニ織上敗軍仕候、川へ逃入、没溺水候者共不知数候、残党於川際少々討候、兵具已下捨候為躰、前代未聞ニ候、不遂一戦退散候之間、数多不討取事無念不少候、雖然此方任存分之条、可御心易候、織田在陣中可注進申候へ共、無程落居候間、無其儀候、此等之通御伝語可畏存候、可得尊意候、恐惶敬白、
閏八月十八日
伊賀平左衛門尉 定治(花押影)
延永備中守 弘就(花押影)
成吉攝津守 尚光(花押影)
氏家常陸介 直元(花押影)
→愛知県史 資料編11「氏家直元等連署状写」(中島文書)
永禄九年に比定。
先々月、こちらの使者である僧が帰る折、お手紙と貴国の家老両名よりご質問がありました。色々と拝見し、書かれていることが親切で本望の至りです。あれ以来、そちらの太守に竜興がご説明しようとしましたが、遠山方へ始末を迎えられ、あちらに誓紙などをとってから伝えるべきでしょうか。こちらもご指示次第です。恐れながら、ご両所へ私の連絡をご伝達下さい。
一、美濃・尾張の間について。先の書面で申し上げたように、公方様のご上洛で織田上総が参戦を要請されました。ということで我々に尾張に対して停戦し、一致して忠節をなすよう仰せがありました。参戦は一向に実を結びませんでしたが、背く訳にもいかず、美濃国のためにご上洛を妨げては落ち度とならざるを得ず、覚悟をもって承知しました。もしこれで世が定まるならばと、公儀のためと思ったのです。何れにせよ、ことごとく下知に従い、罰文などもしたためて細川兵部大輔殿にお返ししていました。
一、織田を近江国に通すべく、道中警護なども調整していたところ、参戦を急ぐようにと細川兵部が再度尾張国に下向して催促したところ、この期に及んで織田上総が指示に背き、こちらには前から案内を計画していたものを、更に事を新たにせず、公儀に背くことは言語道断、(公方の)部隊が撃たれるとのこと、ご賢察誤りました。前の春以来、三好方から色々と懇望しており、その他調略も何重にもあるのことで、これらの妄言によりご上洛が滞りました。それどころか近江国矢嶋の滞在も難しくなったということで、朽木か若狭国の方へお移りになられます。是非もないことです。織田上総は天下の嘲りとなったと言っても過言ではないでしょう。このようなことで、竜興は公儀に対して粗略な心はなかったのですが、どうしようもない成り行きになりました。
一、先月29日に織田上総がこの国との国境に出撃しました。その頃はとても増水しておりましたが、渡河して河野島へ侵入しました。すぐに竜興が迎撃に向かい、これにより織田上総は後退して川べりに陣地を置きました。国の者たちは堺川に限り陣を詰め引き続き守備していました。出撃の翌日、風雨が激しく両軍行動できず、ようやく水が引いたので攻撃して討つよう決議したところ、去る8日未明に織田上総は撤退となりました。川へ逃げ込み、溺れる者は数知れず、残りも川べりで少し討ち取りました。装備は全て捨てた状態で、前代未聞のことです。一戦に及ばず撤退されてしまい、多数を討ち取れなかったことは少なからず無念です。とはいえこちらの思い通りに進んでおりますので、ご安心下さい。織田の在陣中にご報告するべきでしたが、すぐに撤退していまいましたので、それも行ないませんでした。恐れ入りますが、このようにご伝言をお願いしご意見を伺えればと思います。