検証a46:菅沼・奥平の大高補給
感状で「返」という表現を用いているのは今川氏の特徴である。アップした史料から抽出すると4例が見つかった。 「味方及難儀之処、自半途取返、入馬敵突崩得勝利」義元→岡部元信 1552(天文21)年 「尾州大高城江人数・兵粮相 …
感状で「返」という表現を用いているのは今川氏の特徴である。アップした史料から抽出すると4例が見つかった。 「味方及難儀之処、自半途取返、入馬敵突崩得勝利」義元→岡部元信 1552(天文21)年 「尾州大高城江人数・兵粮相 …
旧暦の19日に今川方は3回攻撃を仕掛けている。9月19日、10月19日、そして5月19日は少なくとも確定しているが、それ以外にも永禄2年5月頃から1年にわたり毎月19日に攻撃していた可能性も高いように見える。 では、なぜ …
鳴海から沓掛にかけては鎌倉道が直通していたが、近世になると鳴海から有松を経て知立に抜けるようになる。では、1560(永禄3)年にはどうなっていたのか。 又鳴海の里を行ば、藍原宿を過て、田楽が窪と云野を過て、沓かけを下て一 …
今川・織田の両軍勢がどのように移動したかは、当時の主要道路によって推測可能なので、とりまとめてみた。個別に立論する必要はあると思うが、まず前提となる地図を示してみよう。 実線が今川方、破線が織田方の移動経路となる。 まず …
『武田氏研究第47号』の「一五五〇年代の東美濃・奥三河情勢 -武田氏・今川氏・織田氏・斎藤氏の関係を中心として-」(小川雄・著)に、1560(永禄3)年に至る諸大名や国衆の動静が …
『日本史さんぽ』で、ケイメイ氏が興味深いエントリをしていた。「永禄2年10月19日の理由」というタイトルで、大高城補給の感状がわずか4日後に出ていたことから、「去十九日」は感状が発給された10月ではなく9月19日ではない …
三河国において、今川氏がどのように給人を扱ってきたかは以下のエントリで考察してきた。 検証a25:三河給人の扱い1 牧野保成の場合 検証a26:三河給人の扱い2 松平親乗の場合 検証a32:三河給人の扱い3 奥平定勝の場 …
『甲相駿三国同盟』は有名だが、この成立条件の一つに3つの大名がともに同年齢の嫡男を持っていた点がある。 永禄3年1月時点での比較を表にしてみる。 嫡男 配偶者 父親 婚姻期間 武田 義信(22歳) 義元娘 晴信(39歳) …
括弧内が氏真。0.5でカウントしているのは連署。5月19日に義元が死去すると、大量の文書が氏真から発給される。代替わりという点もあるだろうが、その直前まで義元・氏真ともに文書数が低くなっていることから、その反動だとも考え …
今川家文書分布の中から、義元のものだけで抽出した。 義元の場合、三河国への文書によって傾向が窺える。概観すると1550(天文19)年をピークとする山と、1556(弘治2)年の山とに分かれる。天文末年には三国同盟が成立して …