今川氏真、牧野成定被官稲垣重宗の三河国富永城合戦での戦功を賞す
「牧野右馬允殿 上総介」 今度於富永・広瀬合戦、被官人稲垣平右衛門合鑓、殊敵一人付伏候旨神妙云々、弥可存忠信之旨可申聞之状如件、 永禄五年 七月三日 上総介(花押) 牧野右馬允殿 →静岡県史 資料編7「今川氏真感状」(牧 …
「牧野右馬允殿 上総介」 今度於富永・広瀬合戦、被官人稲垣平右衛門合鑓、殊敵一人付伏候旨神妙云々、弥可存忠信之旨可申聞之状如件、 永禄五年 七月三日 上総介(花押) 牧野右馬允殿 →静岡県史 資料編7「今川氏真感状」(牧 …
去戌三冬、三州津具於白鳥山令忠節候、先判有之候、其後武節之城相籠之刻走廻リ、依之、設楽郡於田口村ニ、徳分拾五貫文可進処務候、縦地頭設楽三郎雖企訴訟、一切不可許容候、向後於令忠節者、可加扶処者也、 永禄五年三月 氏真判 渡 …
於蔵王城本間走廻之由候、神妙之至候、弥可尽粉骨由可被申聞候、 九月廿六日 氏親(花押) 福嶋左衛門尉殿 →静岡県史 資料編7「今川氏親判物」(本間文書) 1501(文亀元)年に比定。 蔵王城において本間が活躍したとのこ …
神山宿伝馬之儀付而、去未年以来、散在之者与伝馬屋敷相拘之者、依有申事今度遂裁許上、先年苅屋・笠寺出陣之時、如相定彼役屋敷拘来七間之者半分、散在之者半分充、打合可勤之、府中・小田原其外近辺所用之儀茂、如年来可相勤、於向後有 …
よく言われるのが「歴史上の人名は似たり寄ったりで覚えられない」。確かに、似ている名前が多い。上で挙げたように、父子で同じパーツを代々受け継ぐパターンもあるから。 このほか、名前を似たものにする要素として、偏諱(へんき …
其地在陣昼夜辛労無是非候、時分柄雖可為迷惑候、両国安危此時候間、各被相談一途遂本意候者快然候、猶々如水魚互談合肝要候、委細岡部次郎衛門尉可申届候、恐々謹言、 閏六月朔日 義元(花押) 松井兵庫助殿 →静岡県史 資料編7「 …
就源五郎方帰国、各進退之儀、雖有訴訟、永不可還附、殊於松井者、当家奉公之筋目、 定光寺殿判形明鏡也、遠江国入国以来、父山城入道粉骨之条、直加扶助之段、為各別之間、不可及異論、然上者、知行・代官所并同心以下、是又不可有相違 …
(印文「義元」) 今度伊豆江透山伏被預置之条、駿・遠両国山伏申付、無怠慢番等之事、逐次第可勤之、若於無沙汰之輩者、可加下知者也、仍如件、 天文十一 壬寅 九月四日 大内 安察使房 →静岡県史 資料編7「今川義元朱印状」( …
武士の名前は結構複雑だ。今川氏親を例にとって見ていこう。 まず、彼が6歳で父親を失った際に登場する名前は童名。 童名 → 龍王丸 『丸』は童名でよく使われるが、これは省略されることもある。 そして元服という成人式 …
(印文「義元」) 遠州棚草紅林次郎左衛門・同名右京亮、数年過分令未進之間、雖遂催促、不許容之間、以公方人令催促之処、一向未進無之由企訴訟之条、遂裁断之上、令致年来之勘定処、両人前七拾貫余之未進明鏡也、然上者両人構虚言企訴 …