今川氏真、武田晴信に、三河出撃への協力を依頼する
御帰陣之上早々可申之処、少取乱候而、遅々意外之至候、仍去年以随波斎申候之処、以一書承之候、得其意■■可申候、就御在陣■引非疎意候、只今存分以定林院■申候、於氏真聊無別儀候、将亦初秋至三州可出馬候、如兼約御合力候者、可為祝 …
御帰陣之上早々可申之処、少取乱候而、遅々意外之至候、仍去年以随波斎申候之処、以一書承之候、得其意■■可申候、就御在陣■引非疎意候、只今存分以定林院■申候、於氏真聊無別儀候、将亦初秋至三州可出馬候、如兼約御合力候者、可為祝 …
去月晦日、大河取出江相働、端城乗入、悉令放火、并敵二人討捕之由、甚以心地好候、弥馳走可為祝着候、恐々謹言、 六月七日 氏真 判 奥平源二郎殿 →戦国遺文 今川氏編2653「今川氏真感状写」(東京大学総合図書館所蔵松平奥 …
笠原新六郎政晴宛ての徳川家康書状写 が戦国遺文の後北条氏編に載っているのだが、出所が「紀州藩家中系譜」とある。 この度高天神の一陣で契約が整い、大慶に終わった。とりわけ協議していた趣旨に同意し満足です。このお気持ちをねぎ …
前の記事では松田調儀の実態について俯瞰したが、各人物の年齢に関しては深く説明できなかった。このため、項を改めて考証してみたい。 新六郎政晴が憲秀の次男であることは勝頼の複数の文書によって明らかだ。 武田勝頼書状 武田勝頼 …
ここまでで、通説とは逆に直秀こそが調儀の主役だったことを検証してきた。では、北条氏直と松田直秀、垪和豊繁の秘密交渉を暴いた松田の「弟」とは何者なのか。いくつか候補がいる。内応していたのは直秀だとして、その「弟」と考えて検 …
北条氏直の出した、松田直秀宛ての書状が疑問点の始まりだった。これは1590(天正18)年6月、炎暑の小田原城での出来事……。既に羽柴方の大軍に攻囲され、分国内の支城も次々に陥落していた状況である。陸奥の伊達政宗も恭順し、 …
猶以、是迄御尋、過当之至、難申上候、其以来者、無音信、背本意奉存候、何様自是可得尊意候、かしく、 被入御念、是迄預御使僧候、誠以忝奉存候、如尊意、此度不慮成儀共、更可申達様も無御座候、我等躰迄めいわく仕候、乍去、拙者なと …
尊札快然ニ奉存候、仍自京都■御使節富左被参、氏直大阪へ可罷移之由、御意之段被申、自境道同道、内府屋形へ移被申候、外聞実■、於我等式も、大慶此事ニ候、聞召不絶氏直所ヘ被仰届候、忝之由被申事ニ候、何様自是■■■者可申上候、此 …
長泉院寺領定事、 合五貫文 但、年貢目、 已上 右、当年庚寅年より、於中沼之郷、永代為寄進相定候、代官池田出雲守有御断、田地可有御請取之者也、仍如件、 天正十八年[庚寅] 三月廿日 直秀(花押) 長泉院 参 →戦 …
一、於当寺中、殺生不可致之事、 一、山中江木草取之儀、本道計可致往覆、若致脇道、枝木之一本も伐取候者、可処罪科事、 一、板屋ヶ窪壱貫五百文之所、如先規寄進申候事、 付、諸役不可有之候事、 右条ゝ、申定所、仍如件、 天正 …