信心志も人の意持もいつくもゝゝかハらぬ物にてこそ候へ、京都ハ山門と和談とやらんの様に成候而、心安勤行をも諸法花共ニせられ候よし候、当宗の事、入らく次第の事にて候、過分に代物を仕候而、これほとにも成たる■■候、本禅にも負物過分ニ候、楞厳ハたち返りにて候、かゝの寺にハ、弟子の厳隆坊を置候、来春ハ早々下候而、小勧進仕度のよし申捨而たち候、加州ハ大乱にて候、一向宗のやつはらも、時節到来とみたる事共多候、此分ならハ久敷事にてハ不可有之候、目出度これにて留まいらせ候、
当年ハ音信思絶候之処に、不計預訪候、事更紅燭と而御明なと送給候、近比信施之至候、爰許なりハ、和談已後如形進退相続分にて候、無威勢沙汰限にて候、所帯先以無相違意にて候、
一 愚老何事なく小屋かけ仕候而、秋に付まいらせ候、飯米ほとハ、年中其あてかい在之事候、国静にたに候ハゝ、次第ゝゝに可相調候、しせん雑説出来候てハ、一日も足をたノむへき地にてハ無之候、前々城中之時の意持ニ大ニ相かはり候、
一 其国先以其近辺安泰之様ニ申来候間、致安堵候、我々もとり廻し候てハ、其国恋敷意出来候、さりなから、としの程と申、いま一両年の内外なれハ、あそここゝと流転の義、不可有之候、一 我々旦方に両度ニ五十宛々百貫かし置候分をは、何もゝゝすましたる分にて候、小田小地の様なる物を取候て、十分にてハ雖無之候、あひよしに成候へく候、同様の義も見像にて物語申度迄ニ候、宮内僧達房トり外不可有之候、其外弟分の者共にも、少しつゝのあてかい、心あて少々ハ其契約をも仕候、
一 尾州よりハ、当年ハ細々子細[孫右濃州在国にて候、]候て、無何事なから大賢坊無力以外之由申来候、妙本寺よりハ細ニ書状候キ、
一 三州ハ駿河衆敗軍の様ニ候て、弾正忠先以一国を管領候、威勢前代未聞之様ニ其沙汰共候、一、此十日計已前ニ京都より楞厳坊罷下候、厳隆坊も同心にて候、心城坊ハ旧冬よりいまに当国ニ滞留候、さる仕合候て、濃州より当国へ上使ニ養雲軒と申人之内者の様にて候、于今旦方あひたの使なと仕候、此人なふてハの様にて候、一、彼楞厳坊申来候ハ、鵜殿仕合ハよくも有間敷様ニ物語候、其謂ハ尾と駿と間を見あはせ候て、種々上手をせられ候之処ニ、覚悟外ニ東国はいくんニ成候間、弾正忠一段ノ曲なく被思たるよしに候、定而彼地をも只今の時分ハ攻いらんやと致物語候間、あまりニ■■許存候間、近日心■坊を可差遣覚悟にて候、岡崎ハ弾江かう参之分にて、からゝゝの命にて候、弾ハ三州平均、其翌日ニ京上候、其便宜候て楞厳物語も聞まいらせ候、万一の辺も候てハ、門中力落外見実義口惜次第候、
一 孫次と藤次との間ハ、于今義絶にて候、僧衆も其分にて候、落居、庶子惣領和忠可有之候哉、只今金木[魁]にて候、
一 当年中ハ家造りにかゝり候て、行李共ニ徒絶沙汰限にて候、城中にても、只今も書立たる物、両三帖余候之間、一度ハ可入内覧候、一、としハ七旬ニ遥ニたらす候へ共、殊外衰老之条々候之間、当冬中あふなく候、一、こんと上国候者、彼常顕の百之内、金にて五十も卅もわたし可申候、ほそ物より外ハ現却ハ一物も不可有之候、当夏中ニほそ物少売候て、つゝけまいらせ候、一、当地此あきは皆々家造りにて候、国もいまの分ならハ、当年中ハ安穏たるへく候、一、椎名殿ハ于今むさくにて候、神とハ面趣被申談分にて候へ共、底ハほとけぬ事にて候、一、濃の様ハさる物なり共、雑絶風勢をなり共遣度候へ共、とても持届ましき由候て、色々ニ申候へ共、とても持届ましき由候て、かたくしんしやく致候間、不能其義候事口惜候、路次番の様躰、当国の内も其国ニ入候ても、一処二処ならぬ事にて候間、申も無余義候、一、普門院近比目出度候、蔵人方御明ありかたきのよし差上候へく候、一、当地旦方不弁困窮過法候、借銭・借米山のことくにて候、孫次ハ此上にて候、
一 爰計も信心志と申事ハむかし事にて、一飯のくやうも、返而俗ともにさせさうにて候、ちと違候へハ、非謗たくにて候、全躰井田蔵人と申物にて候、乱世ニ付て人の心もちかい、覚悟も別の物になり候、さりなから、ゆくへき方も無之候間、こゝもとを死処に心ありて候へ共、らん好の国にて候之間、何事を申定ても、それハ本ハ有間敷候、恐々謹言、
九月廿二日
菩提 日覚(花押)
本成寺
→愛知県史資料編14補178「菩提心院日覚書状」(本成寺文書)
天文16年に比定。
信心・志も人の『意持』も一句も一句も変わらないものでしょうけれど、京都は比叡山と和談のようだとのことで、心安く勤行を諸法華たちがされたとのこと。当宗のことは、入洛次第のことです。過剰に品物を用意して、これほどになるものかと。『本禅』にも借金が過分にできました。楞厳坊はすぐ戻ったので、あの寺には弟子の厳隆坊を置きました。来春は早々に下って、小勧進をしたいとのことを申し捨てて発ちました。加賀国は大乱です。一向宗の奴らが時節到来と見ていることが多いです。この分だと、久しいことにはならないでしょう。めでたくこれで留め参らせます。
当年は書信を交わそうとの思いも絶えていましたところ、思いがけずご訪問を受けました。特に御灯明として紅燭をいただきました。近頃のお布施の至りです。こちらは、和談以後形のように進退を相続した分です。威勢なく思いやられます。所帯はまずもって相違ない状況です。
一、愚老は何事もなく小屋をかけ、秋に住み着きました。食料は年内の備蓄があります。国が鎮まれば徐々に落ち着くでしょう。万一騒動があったら、一日でも足を頼む地ではありません。前々城中の時の『意持』は大いに変わりました。
一、その国はまずもってその近辺が安泰の様子と聞きましたので、安堵しました。我々も折に触れて恋しい気持ちが出てきます。さりながら、年をとりましたし、あと1~2年のことですから、あちこちと流転するなどできません。
一、我々が『旦方』へ2度50ずつ100貫文を貸していますのを、どれもこれも済ましたとされ、小さい田や土地のようなものを取りまして、十分とはいえませんが、相殺にするようにとのことです。同様のことも『見像』でお話したいことです。宮内僧達が『房トり外』はありえません。そのほか弟分の者たちにも、少しずつ給付して、少々はその契約もしたことになりましょうか。
一、尾張国よりは、当年は事細かく報告がありました。孫右が美濃国にいます。何事もないながら、大賢坊がとても力をなくしたとのことです。妙本寺からは細かく書状がありました。
一、三河国は駿河衆が敗軍のようで、弾正忠がまずもって一国を統治しています。威勢は前代未聞のようだと持ちきりです。一、この10日ばかり前に京都より楞厳坊が下ってきて、厳隆坊も一緒でした。心城坊は去年の冬から今も当国に滞在しています。このような巡り合わせで美濃国より当国への上使は養雲軒という人の身内のようです。今は『旦方』との間の使いなどをしています。この人がいなくてはという様子です。一、あの楞厳坊が言うには、鵜殿の状況はよくはないとの話です。その内容は、尾張と駿河の間を縫って色々とうまく立ち回っていたところ、思いのほかに東国が敗軍になったので、弾正忠に一段とつまらなく思われたとのことです。きっとあの地に今にも攻め入ろうとしているとのことで、あまりに心もとなく、近日心城坊を派遣する覚悟です。岡崎は弾正忠へ降参して、命からがらでした。弾正忠は三河国を平定。その翌日に上京しました。その好機を得て楞厳坊の話も聞き参らせます。万一のことでもあれば、門中は力を落とし、外聞も内実も悔しいことでしょう。
一、『孫次』(斎藤孫次郎利家)と『藤次』(斎藤藤次郎)との間は、今は義絶となっています。僧衆も同じです。落居し、庶子・総領は和衷をなすべきではないでしょうか。今は『金木』が先んじています。
一、年内に家作りにかかりまして、行李などが途絶し沙汰の限りです。城中でも、現在も書きたてているものが幅3帖になりましたので、一度はお見せしたいところです。一、年は70歳に遥かに足りませんが、ことのほか老衰することがあるので、この冬も危ないです。一、今度国に上がりましたら、あの常顕の100のうち、金で50~30も渡しましょう。『ほそ物』以外の『現却』は1つもないでしょう。当夏中に『ほそ物』を少し売って、続けて参らせます。一、当地のこの秋は皆が家作りをしています。国も今の状況なら、当年中は安穏でしょう。一、椎名(康胤)殿は現在『むさく』(無作?)です。神保(長職)とは面会して話しているようですが、腹の内はほどけないことです。一、美濃国の様子は前述のようですが、『雑絶風勢』(下役の風情?)であっても派遣したいところですが、とても届けられないとのことで、色々と言っていますが、とても届けられないとのことで堅く斟酌していますから、その件がならないことは悔しいことです。路次番の様子は、当国の中もその国に入っても、1~2箇所ではないので、言っても仕方のないことです。一、普門院は最近おめでたく、蔵人方の『御明』(灯明料?)をありがたく差し上げるでしょう。一、当地の『旦方』の逼迫は法に過ぎ、借金と借米は山のようです。『孫次』はこの上です。
一、こちらも信心・志は昔の事で、一飯の供養も返って俗輩にさせようとして、少し間違えれば非難を浴びます。全体は井田蔵人という者です。乱世において、人の心も変わり、覚悟も別のものになりました。とはいえ、行く先もありませんので、こちらを死に場所と思っていますが、乱を好む国ですから、何事も言って決めても、それは本当にはなりません。