大藤隊が参戦する前に、既に越後軍は小田原近くまで達していた模様である。1561(永禄4)年時の文書から以下の事柄が判る。

3月3日
越後衆が当麻宿に着陣していると報告(氏照書状
3月10日
小畑源太郎が籠城戦で活躍したことを称える(氏政判物写
3月14日
大藤が大槻で6人討ち取ったことを称える(氏政感状
3月24日
大藤が22日の曽我山で敵を多数討ち取ったことを称える(氏康書状

 

→敵の進攻に合わせ水之尾に移動せよ(同上)

 

大藤がぬた山に備えを上げて敵を邀撃したことを称える(氏政書状

 

→越後衆が川を渡ったので当口に移動せよ(同上)

 

→状況が切迫しており感状の発行が不能(同上)

 

→薬を3種類送付(同上)

 

大藤に小田原城には500挺の鉄炮があると報告(宗哲書状

 

→22日の合戦を称え氏康・氏政が特別扱いすることを確約(同上)
閏3月4日
川越に援軍で入っている部下に「敵が酒匂を撤収した」と報告(氏真書状写

 この動きをマップに貼ってみたが、大槻→曽我山→沼田→水之尾→小田原城という移動経路は非常に自然であり、越後方の追尾を避け不規則な移動を行なった形跡は見られない。むしろ、海岸沿いの敵本軍を避けつつ、最短距離で小田原入城を果たそうという意図が感じられる。

大きな地図で見る
 書状は緊迫した状況で最小限の情報のみを伝えているため、行間が抜けている。ここを埋めて考えてみる。

  1. 諸足軽衆の給地である岡崎か、大藤氏の拠点である田原から進軍を開始していると思われる。確認できる最初の大藤隊出現地は大槻であり、岡崎・田原どちらからも程近い。大藤隊はどちらかの地に集結して機を窺っていた可能性がある。
  2. 3月10日に小畑氏が小田原城と思われる場所での奮闘を称えられている。この日以前に小田原城は攻囲されていた可能性が高い。
  3. しかし14日の合戦の感状は当日発行されている。小田原城との連絡線は確保されており、なおかつ作戦日程を小田原が知っていた可能性が高い。後に氏政が水之尾に向かえと指示していることから、小田原城西方の丘陵地帯は封鎖されていなかったか。
  4. 24日付けで、氏康・氏政・宗哲が相次いで大藤へ指示している。この日戦局に大きな動きがあったと想定できる。その様子は氏政書状の追伸「敵川を越候者、早ゝ当口へ可移候」から窺える。酒匂にいたと思われる越後方本軍が、前衛を渡河させ本格的な攻城が始まったのだろう。
  5. 15~23日に大藤隊と小田原城は連絡できていない模様。小田原城の3人はそれぞれに情報を伝えようと躍起になっている。大藤隊が戦闘中で連絡不能だったか、氏政が言っているように小田原城内が混乱の極みにあったか。
  6. 薬を送られていることから激戦が窺える。
  7. 大藤隊が小田原城に入ったと思われる3月25日~閏3月4日の10日間で、越後方は酒匂を撤収している。
  8. この合戦以後のものと思われる作戦通達書で敵が侵攻して来たら徹底的に籠城し、後は大藤に任せよという作戦を後北条氏が指示しているが、1561(永禄4)年のこの成功体験を元にしていると思われる。

 以上の事柄と前項を考えて、考察を試みる。

  • 酒匂までは進撃できた越後方本軍は、小田原城と大藤隊という2つの目標を同時に殲滅する兵力は持っていなかった。
  • 小田原本軍と大藤隊が合流した段階で、越後方は酒匂を撤収している。兵数優位が崩れ小田原城攻囲が膠着したため、援軍を恐れての撤収と考えられる。
  • 但し合流後の後北条方も即座に越後方を追撃できたのではなく、暫く籠城が続いている。
  • 小田原本軍700、越後本軍4000と試算してみる。越後方は酒匂に本陣2500を据え先鋒1500が渡河・攻囲するが、背後から大藤隊が出現。大藤隊の兵数が不明で攻撃隊300を投入するが阻止できない。越後方は大藤隊合流前に小田原城を落とすべく後続500を渡河させる。だが間に合わず、小田原本軍は1200となる。越後方は小田原攻囲2000と酒匂本軍2000で事態は膠着。玉縄・江戸・川越からの後北条方来援、武田・今川の援軍到来を恐れた越後方は軍を撤収する。小田原本軍1200では野戦で不利となるため、後北条方も追撃はできず。推論に過ぎないがこの計算は史料と矛盾しない。
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5 comments untill now

  1.  大藤の動きのMAPは正しいと思います。しかしぬた山を沼田と位置付けていますが、中井町古怒田の周辺のことだと思います。[目が/]
     ここは元和8年に「ぬた」を小舟村の早野與次右衛門が開墾し怒田村となったところで南足柄の怒田村と混同するので小怒田村にしたがこれも同名村があったため、開墾前より古怒田という平家の落武者がお城に住んでいたので古怒田村となったと伝承されています。[にこっ/]
    お城ではなく大藤が陣を張った時の砦のようなものではなかったと思いますが、上杉軍撤退後、ここは南北は眺望ができませんが小田原城や上杉軍が陣を張った高麗山、酒匂川は良く見えるため北条の番役で着任し、戦国時代の変遷で土着し60年後に開墾されるときには北条は平氏でもありそのような存在に見られていたと考えられます。陣を張る以前はここにはだれも住んでなく、ぬた原を取りまく山をぬた山と言っていたのだと考えられます。ここは谷湿原から形成された「ぬた」です。この時代のころにはほとんど陸化、乾地化した土地になっていたと考えられます。
    また24日付けの氏康、氏政の手紙文を読んでも手紙内容から24日に沼田で大藤が戦闘したのは論理的に変だと思うのは判官びいきな考えなのかなと[いやー/]

  2.  コメントありがとうございます。古怒田の伝承情報ありがとうございます。
     『ぬた山』についてはご指摘の通り比定地が明確ではありません。私も執筆時、中井町古怒田・南足柄市怒田山・南足柄市沼田の3箇所を想定しました。改めて考察してみましたが、やはり沼田でよいと考えています。以下ご説明します。
     3箇所のうち、最も可能性が小さいのが中井町古怒田であると考えています。24日付け氏康書状にある「曽我山」は、浅間山・不動山・高山の何れかを指しますが、どの山も足柄平野を俯瞰できる要衝です。ところが古怒田は眺望の点で足柄平野とリンクしないと考えたためです。コメントでは小田原が見えるとありましたが、不動山・浅間山に遮られませんか? 私は現地に行ったことがないのでその点は地図だけで判断しておりましたが、何か情報ありましたらお教え下さい。
     また、シチュエーションも余り見えてこないかと思います。曽我山に駐屯していた大藤隊が北方より攻撃を受けたというケースだと思われますが、その場合は「仍ぬた山へ備を上」ではなく「仍曽我山へ備を上」となりそうです。
     『小田原衆所領役帳』にある怒田郷は南足柄市怒田と比定されています(西郡という記述があり、中井町は含まれないので)。また、地元でも「怒田山」というと足柄高校やアサヒビールのある丘陵を指すことが多いように記憶しています。怒田山の北方には酒匂川の渡河地点である岩流瀬も存在していますから、戦略上問題はありません。曽我山まで出で敵陣を観察した大藤隊が、山伝いに松田経由で岩流瀬に辿り着き、そこで酒匂川を渡ります。なおも南下しようとしたところ、酒匂川右岸を北上してきた越後方と衝突、急遽怒田山に登って交戦した、という構図は無理がありません。
     しかし、氏康・氏政の「敵が川を渡ったから水之尾口へ移動せよ」という指示から考えると、怒田山は遠いように思います。私は高校までを箱根・小田原で過ごしたので感覚的にそう感じていますが、実際にも水之尾までの直線距離は怒田山が約8.5km、沼田が約3.9kmとなっており、倍以上異なります。この点から考えて、私は除外しました。
     沼田を比定地とすると、水之尾への移動は最も容易になります。そのまま南下すれば北条宗哲の領地久野がすぐですし、この辺りの地形は入り組んでいるので越後方の侵入も考えにくいということで。
     沼田比定説で決め切れなかったのが酒匂川の渡河地点です。曽我城前寺辺りまで降りた後、吉田島か鬼柳辺りで渡ったと考えるのが妥当かと思います。渡河に気づいた越後方が間に合わないギリギリの距離を選ぶなら鬼柳、安全圏を選ぶなら吉田島かと(飯泉の可能性もありますが、これは相当なギャンブルです)。
     地理に不慣れな越後方は酒匂の渡ししか知らなかった可能性は高いのですが、本当にそうかを確認しなければなりません。その目的で大藤隊は曽我山に移動したのだと考えています。伯母が高山に蜜柑畑を持っていた関係で、よく登りました。不動山より標高は低いのですが、足柄平野が一望できた記憶があります。
     また、大藤隊が曽我山近辺に滞在しているのであれば、「敵が川を越えた」という情報を送る必要はありません。「早々に水之尾へ移動せよ」というのも無茶な指令になるでしょう。一方、沼田近辺だと酒匂川河口付近はよく見えないのです。間をふさぐ久野丘陵より標高が低いのが原因だと思われます。であれば「敵が川を越えたから早々に水之尾へ移動せよ」という指令も現実味のあるものになるのではないでしょうか。
     最後に「仍ぬた山へ備を上」という合戦の日付についてですが、22日の曽我山合戦については氏康・宗哲が言及していますからこのことではないでしょう。となると、23日か24日の出来事と思われます。この件で氏康・宗哲より現場に近いと思われる氏政は、14日の大槻合戦では即日感状を発行しています。「昨日」と断っていないことから、24日当日に報告を受けそのまま薬と一緒に書状を送ったのだと考えました。日付がないのは「手前取乱間」という理由で正式な感状ではなかったためでしょう。
     以上のように考えております。またお考えを伺えれば嬉しく思います。

  3. こまつ @ 2015-03-18 21:04

     度々お邪魔しております。

     こちらも素晴らしいですね。在所で鳴りを潜めていた大藤秀信の率いる諸足軽衆が機を見て敵陣に襲い掛かったという解釈には得心がいきましたし、とても臨場感のある記事でした。通説からすると、大藤秀信は小田原城から出撃して敵陣を撹乱したような印象でしたが、大藤が小田原城から出撃したのならば、わざわざ幻庵宗哲が、鉄炮五百丁を配備しているなどの情報を伝えなくても、すでに大藤は見知っていたでしょうから。

     勝手ながらブログで参考にさせてもらいました。

  4. コメントありがとうございます。ご参考になったようで嬉しく思います。

    大藤隊の動きについては、諸書では詳しく書かれていません。恐らく先学には自明のこととされているのだと思いますが、私は確実にトレースしたかったので突き詰めて書いてみました。こういうところは素人の強みかも知れません。

    遠過ぎる石垣山 その3

    上記の記事で、この時の動きと天正18年の動きを併せて考察しています。宜しかったらご覧下さい。

  5. お久しぶりです。詳細なコメントありがとうございます。ご説明いただいたように、氏康が「曽我山」としている地点を氏政が「ぬた山」と呼んでいる可能性はあると思います。時系列から見ても齟齬はなさそうです。ただ一方で、氏政が「あなたは6人討ち取った」と書いている部分が、改めて考えてみて引っかかりました。大槻合戦と同じ人数ですから、この時の注文(リスト)が到着したのを勘違いしていた可能性が高いように思います。氏政自身も自分が混乱していると認めていますし……。そう考えると、「ぬた山」に上ったことと6人を討ち取ったことは別の出来事で、それを混同して記したのかも知れません。となると、余り厳密な比定検証をしても意味がない可能性がありますねorz。

    ちなみに『酒匂川の沿革と氾濫の歴史』(酒匂川水系保全協議会)によると、後北条時代の酒匂川は、河口部は近世と同じですが、中流域は大きく西側に乱流しており、千津島は流域内になります。それが沼田の辺りで狩川と合流して大きな流れになって飯泉に向かっていたそうです。越後方に追いすがられながら「ぬた山」に上ったという解釈をとるならば、曽我山から最短距離で足柄丘陵に取り付きつつ、渡河距離が長くなる沼田比定も充分に検討可能かと思います。

    とはいえ特にどの比定地というこだわりはありません。また情報をいただければと思います。宜しくお願いします。