同時代の一次史料だと、今川方の兵数を明確に記載した書状は見つけられていない。参考として、地域と大名は異なるが史料が多数残る後北条氏の場合を取り上げる。特に参考となるのは、戦闘専門の集団と思われる大藤氏だ。この足軽集団は『所領役帳』にも諸足軽衆として記載されている。
1552(天文21)年12月に大藤家の家督を継いだ与七は、大藤金谷斎の末子だった(北条氏康書状)。彼は結城氏、今川氏、武田氏への援軍として起用されて活躍している。最後は武田氏への援軍として二俣城を攻撃中、鉄砲に当たって亡くなる(
武田勝頼書状)。
この大藤氏は数々の文書を後世に残しており、感状や着到状などから部隊の詳細を詰められるだろう。まず、この部隊の概要を追いつつ、最も活躍したと思われる1561(永禄4)年の小田原攻囲戦の動向を検証する。この時、後北条氏は未曾有の軍事的危機に遭遇する。それは今川義元が討ち死にした1560(永禄3)年5月19日から僅か4ヵ月後の9月23日。関東公方足利義氏が那須氏に出した書状から始まる。ここで義氏は、越後国の軍勢が沼田口に進軍してきたこと、北条氏康が出撃したので上野国の防衛は大丈夫だが、万一に備え佐竹義昭に参陣してほしいことを告げる。
その後の展開を時系列で並べてみる。
- 09月28日 氏康は川越から真壁氏に書状。「沼田を越後勢が占拠」
- 10月04日 氏康は某に横瀬攻撃の段取りを指示。
- 10月06日 氏康は野田氏に館林近辺で船橋設置を指示。
- 11月11日 氏康は梁氏に感状を発行し江戸城での活躍を期待。
- 11月16日 北条氏康は那須氏に「当口が取り乱しているが防備は安心してほしい」と報告。
- 12月03日 北条氏康は池田氏の借財を帳消しにし、川越城での活躍を期待。
- 01月15日 氏康は野田氏に房総に難があり江戸城に留まっていると告げる。
- 02月25日 北条氏康は高橋氏に蒔田氏を玉縄城に入れるよう指示。
- 03月03日 北条氏照は加藤氏に敵が相模当麻まで侵入したことを報告。
- 03月03日 北条氏康は大平氏に足立郡での所領給与を約束。玉縄城での活躍を期待。
- 03月08日 北条氏朱印状で中筋へ侵攻したので大藤隊を召集した。兵粮を守れと指示。
10月までは川越から上野国奪回を目指していた氏康が、年明けには江戸城まで後退。さらに3月に入ると相模の奥深くまで侵攻されてしまう。
史料から事情を探ってみると、那須氏宛書状、真壁氏宛書状から、越後方が侵攻してくることを各氏が後北条氏・関東公方に通報していることが伺える。それを当て込んで氏康は川越まで進撃した。だが、房総で不穏な動きがあり江戸まで退く。そして越後方に属す勢力が拡大、氏康は小田原に籠城するほかなかったと推測できる。拠点防衛を徹底するため、蒔田(武蔵吉良)氏を玉縄城に収容している。後に氏康が出した書状に、この時の窮状を述べたものがある。
■箱根別当への書状
太田美濃守・成田下総守が離反。
遠国の紛争を鎮めるため北条左衛門大夫などの主力を派遣していた。
このため手元の兵数が足りず籠城しか手段がなかった。
■金剛王院への書状
正木など関東の弓取が残らず攻めてきた。
武蔵・相模の城では江戸・河越など7~8箇所が無事だった。
関東が一気に越後方になびいている状況の中、後北条方が直轄の城に逼塞していく様子が判る。主力がどこかに遠征しているのも響いているだろう。長尾景虎の作戦は見事に奏功していく。
そして、この状況で大藤隊が動き始める……。
大藤文書に、収録されている家系図は、明治作成です。
幕府の寛政譜もどきのモノを、同時代史料扱いするのは、どうかと思うが。
上杉の歴代古案も、同時代史料を偽装した写本だし。
コメントありがとうございます。断定されておられるようですが、それぞれの論拠・典拠をお書き下さいますか? このままでは検討が行なえませんので、宜しくお願いします。